2017年2月 8日 (水)

新著発行

 『父は帰ってこなかった 北海道空襲で亡くなった人と残された人たち』を出版しました。
 戦争で家族を失った人たちは、どのように、その事実を見つめ、折り合いをつけ、その後の人生を歩んでいくのか。根室空襲で父を亡くした兄妹、戸井空襲で祖母と妹を失い、さらに目の前の海で母の従弟を亡くした男性に、故人の人柄や遺族の戦後を訊きました。『北海道空襲犠牲者名簿』の追補や犠牲者地図の改訂版も収録しています。800円+税、A5版、130ページ(全モノクロ印刷)。ISBN:978-4-9908542-9-4、書肆山住発行。
 お求めはminamisiribesi@hotmail.co.jpまで。送料無料でお送りします。Amazonにも出品しています。

2015年10月21日 (水)

在庫切れのお知らせ

久々の更新です。おかげさまで、『北海道空襲犠牲者名簿』は、著者の手元では在庫切れとなりました。

入手希望の方は、以下の通販サイトにお願いします。
Antique&Brocante ROSE ROSE

また、閲覧だけで良いという方は、お近くの図書館にてお願いします。道内主要図書館に所蔵されています。

2011年10月 4日 (火)

おわりに

 北海道空襲により亡くなられた皆さんのお名前を一人でも多く明らかにしようと取り組み、その結果を名簿にまとめましたが、まだ氏名不明の方々はたくさん残されています。特に、室蘭艦砲射撃の日鉄関係者、青函連絡船津軽丸の乗客、海上で亡くなった兵士などに、とくに氏名不明者が多いです。


 本名簿をお手にとられた皆さまにお願いです。漏れや誤りに気付かれましたら、ぜひご連絡をいただけるとありがたいです。今後も改訂作業を行っていきたいと考えておりますので、よろしくお願いします。


 本ブログの更新はいったん終了させていただきます。北海道空襲に関する目新しい情報が得られたら、また記事をアップいたします。ひとまず、ありがとうございました。

2011年10月 1日 (土)

地域不明

 亡くなったのは北海道だが、それが海上だったのか陸上だったのかすら明らかでない人もいる。山形県出身の陸軍兵2人は15日に北海道で死亡したとしか分からなかった。


【地域不明の犠牲者】
 氏名判明・・・民間0、船員0、軍人2
 氏名不明・・・民間0、船員0、軍人0


【主要参考文献】
・山形県『山形県戦没者芳名録』(1999年)

2011年9月30日 (金)

その他海上

 その他、北海道空襲により海上で亡くなった人が、本調査により49人見つかった。


【その他の海上の犠牲者】
 氏名判明・・・民間0、船員8、軍人66
 氏名不明・・・民間0、船員0、軍人 0


【主要参考文献】
・海防艦顕彰会『海防艦戦記』(1982年)
・松本尚志「1945年7月14-15日北海道・東北空襲による被害艦船一覧 (1)艦船及び汽船の部 (2)機帆船の部」,『トカプチ』,第19号,2008年
・駒宮真七郎『戦時船舶史』(1991年)
・戦没船員の碑建立会『戦没船員名簿』(1972年)
・第二復員局残務処理部『日本艦艇及船舶被害一覧表(自1945年1月至1945年8月)』(1949年)
・JACAR(アジア歴史資料センター),Ref.C08030456200,厚岸防備隊『昭和二十年六月分 厚岸防備隊戦時日誌』,防衛省防衛研究所所蔵

2011年9月29日 (木)

津軽海峡

 青函連絡船以外にも多くの船が14日・15日に津軽海峡で攻撃を受け、たくさんの人が亡くなった。この事実は、これまでの北海道空襲に関する調査ではほとんど注目されてこなかった。銃後の民間人が命を奪われたことも許されないことではあるが、海上の船員や兵士もほとんど戦う手段もないまま殺されていったことを考えると、空襲の犠牲者として名を記録されるべきであろう。


(a)第219号海防艦
 『戸井町史』に「十五日、瀬田来沖を航行中の海防艦が艦載機に襲われ忽ち撃沈された」とある。このとき海防艦を襲ったグラマン機の一部が戸井町を攻撃したことにより、町民にも犠牲者が出た。しかし、この海防艦の名称も犠牲者の数も書かれていない。「函館空襲を記録する会」の浅利政俊氏がこれに疑問をもって調査を行い、2008(平成20)年に『北海道の船団護衛に尽力した第219号海防艦』という報告を出している。それによると、空襲を受けたのは第219号海防艦(810排水トン)であり、沈没した地点は北緯41度48分、東経140度41分であった。空襲により犠牲となった194名の海軍兵の名前は『海防艦戦記』に収録されている。


(b)第24号掃海艇
 第24号掃海艇(648排水トン)は14日に室蘭、15日に津軽海峡で空襲を受けた。その模様を記した『第52掃海隊第24号掃海艇戦闘詳報』がアジア歴史資料センターで公開されている(Ref.C08030214300)。
 戦闘詳報によれば、14日は午前と午後の二回にわたって室蘭港でグラマン機の攻撃を受けたが、被害はなかった 。
 15日は、敵機の日本海及び陸奥湾への侵入を阻止せよとの命令を受けて、津軽海峡西口に向かった。09時00分頃、汐首岬の沖合でグラマン機の来襲を受け、09時57分に沈没した。負傷者を乗せたカッター・内火艇は繰り返し機銃掃射され、カッター2隻は破壊・沈没した。漂流中の兵員に対しても超低空で機銃掃射が繰り返された。板きれやムシロを頭上に載せていた人だけがグラマン機に発見されず掃射を受けなかった。今回の調査では、このとき亡くなった153人の犠牲者名が判明した。



(c)豊国丸
 特設運送船、豊国丸(1274総トン)は14日に大間崎沖でグラマン機の攻撃を受け沈没し135名が亡くなった。空襲の模様は『日本海軍特務艦豊国丸』や『嗚呼豊国丸』にまとめられている。
 それによれば、豊国丸は14日に八戸港を出港し北上していた。04時30分頃からグラマン機の攻撃を受け始め、津軽海峡に入った11時頃までに戦闘員の大部分が戦死または負傷した。14時頃に大間崎近傍で爆弾3発を被弾し、14時36分に沈没した。
 沈没時に約60名が海上に出たが、多くは波間に沈んだり、潮流に流されて行方不明となった。助かったのは青森県大畑町に流れ着いた12名だけだった。
犠牲者135名の氏名は『嗚呼豊国丸』『豊国丸遺族会と揺れ動く墓標』に収録されている。また、青森県大間崎に豊国丸戦死者忠霊碑が建てられている。


(d)永保丸
 永保丸(北海船舶、741総トン)は14日、汐首岬沖合を航行中に空爆され沈没した。『戦時船舶史』によれば、26人の船員が亡くなっている。『戦没船員名簿』を確認したところ、たしかに26人の名前が見つかった。函館普通海員養成所出身の若者が多い。


(e)朝洋丸
 特設掃海艇、朝洋丸(80総トン)は、13日に函館を出発したあと消息不明となり、空襲により沈没したものだと推測されている(『大湊防備隊戦闘詳報第九号(七月十四、五日敵機動部隊来襲ニ依ル対空戦闘)』)。乗船員全員もしくは大半が亡くなったのではないかと思われるが、死者数について書いた資料が見当たらない。ただ、艇長ら2名が亡くなったことは突き止められた。



(f)その他の船舶
 その他、以下の船舶が津軽海峡で空襲を受け、死者が出たことが分かった。
 ・幸丸(東邦水産、194総トン)・・・13人
 ・阿波丸(1650総トン)・・・5人
 ・第九多聞丸(三井機船、105総トン)・・・1人
 ・第43忠洋丸(栗林機船、110総トン)・・・1人
 ・神悦丸(松村勇、169総トン)・・・1人
 ・敷設特務艇、黒崎(420排水トン)・・・2人
 ・特設掃海艇、第二朝洋丸(80総トン)・・・13人
 ・特設監視艇、第二号明治丸(80総トン)・・・6人+α
 ・特設掃海艇、第三京仁丸(434総トン)・・・
 ・第18榮徳丸(171総トン)・・・2人
 ・平野丸(三井船舶、1232総トン)・・・5人
 ・興隆丸(坂本五郎兵衛、98総トン)・・・3人



【津軽海峡空襲の犠牲者】
 氏名判明・・・民間0、船員60、軍人494
 氏名不明・・・民間0、船員 0、軍人 16


【主要参考文献】
・平井秀松『鳴呼豊国丸』(旧日本海軍特務艦豊国丸慰霊会,1975年)
・高津市三『豊国丸遺族会と揺れ動く墓標』(旧日本海軍特務艦豊国丸遺族会,1998年)
・駒宮真七郎『戦時船舶史』(1991年)
・戦没船員の碑建立会『戦没船員名簿』(1972年)
・野間亘『商船が語る太平洋戦争-商船三井戦時船史』(2004年,再版)
・海防艦顕彰会『海防艦戦記』(1982年)
・松本尚志「1945年7月14-15日北海道・東北空襲による被害艦船一覧 (1)艦船及び汽船の部 (2)機帆船の部」,『トカプチ』,第19号,2008年
・JACAR(アジア歴史資料センター),Ref.C08030453700,大湊防備隊『昭和二十年七月三十日 大湊防備隊戦闘詳報第九号(七月十四、五日敵機動部隊来襲ニ依ル対空戦闘)』(1945年),防衛省防衛研究所所蔵
・JACAR(アジア歴史資料センター),Ref.C08030214300,『第52掃海隊第24号掃海艇戦闘詳報』,防衛省防衛研究所所蔵

2011年9月28日 (水)

青函連絡船

 本州と北海道を結ぶ大動脈であった青函連絡船は14日と15日の空襲で全滅した。


 14日は、翔鳳丸が青森港内、飛鸞丸・第二青函丸が青森港外で沈没した。松前丸は七重浜で座礁し炎上した。津軽丸は狐越岬沖で沈没した。第三青函丸は矢越岬沖で、第四青函丸は葛登支岬沖で沈没した。第六青函丸は野内沖で座礁した。第十青函丸は函館港外で沈没した。第七青函丸・第八青函丸は函館港内で損傷を受けた。


 15日は、第一青函丸が三厩港灯台の東1キロ付近で沈没した。


 この空襲により、多くの乗員・乗客が亡くなった。しかし、死亡者数は資料によってばらばらとなっている。例えば、『青函連絡船史』(青函船舶鉄道管理局,1970年)では乗員346人・乗客52人・船舶警戒隊員27人、合計425人が亡くなったとされる。『白い航跡 青函連絡船戦災史』では430人が亡くなったとされる。他にも、412人(『ハマナスのかげで』)、429人(坂本幸四郎『青函連絡船』)、477人(松本尚志(『証言帯広空襲 第四集』))という説があり、いったいどれが正しいのか分からない。


 青函連絡船の犠牲者については、複数の名簿がある。本調査では、『白い航跡』『戦没船員名簿』『青函連絡船殉難者名簿』および函館市内の慰霊碑に刻まれた「青函連絡船殉職者氏名」という4種の名簿に当たった。



 乗客の犠牲が出たのは津軽丸のみであった。『昭和二十年青函連絡船戦災記録』に収録されている「津軽丸戦災ニヨル遭難旅客概況」によれば、乗客の行方不明者は52名で、その他に1人の陸軍兵が海上で乗り込んでいる。『白い航跡』ではこのうち6人の氏名が明らかにされているが、大半の死者については氏名不明のままであった。今回の調査では、各地の市町村史などを確認し、4名の乗客名を見つけた。


 『白い航跡』の名簿によれば、第四青函丸と第五青函丸以外の船には船舶警戒隊員が乗り組んでいた。死者・行方不明者を数えると、従来言われてきた27名ではなく28名の犠牲が出ている。


 明らかになった犠牲者を数えたところ、乗員349人、乗客53人(途中乗船1人含む)、船舶警戒隊員28人、合計430人となった。船舶別では、翔鳳丸48人、飛鸞丸32人、津軽丸134人、松前丸28人、第二青函丸26人、第三青函丸71人、第四青函丸54人、第六青函丸37人である。



【青函連絡船空襲の犠牲者】
 氏名判明・・・民間 7、船員349、軍人30
 氏名不明・・・民間44、船員  0、軍人 0


【主要参考文献】
・青函連絡船戦災史編集委員会『白い航跡 青函連絡船戦災史』(青森空襲を記録する会,1995年)
・荒木善之『昭和二十年青函連絡船戦災記録』(1965年)
・昭和20年青函連絡船遺族会『青函連絡船殉難者名簿』(1966年)
・坂本幸四郎『わが青春の青函連絡船』(光人社,1989年)
・昭和20年青函連絡船遺族会『札幌鉄道教習所函館船員養成所設置概要と第四期生遭難に関する事後処理記録』(1984年)
・葛西常利『国鉄青函連絡船大沼第四期生空襲殉難の記』(1983年)

2011年9月27日 (火)

中標津町

 中標津町は14日に空襲を受けた。『中標津町史』によると兵士1人・徴用2人が亡くなったとされる。一方、旧日本陸軍の資料「北部軍防空情報」 によれば、計根別の陸軍飛行場で兵士1名が戦死、中標津の海軍基地の滑走路への攻撃で3人が戦死している。

 『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』により1人、本調査で1人の氏名が判明している。


【中標津空襲の犠牲者】
 氏名判明・・・民間1、船員0、軍人1
 氏名不明・・・民間2、船員0、軍人0


【主要参考文献】
・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・中標津町『中標津町史』(1981年)

2011年9月26日 (月)

別海町

 別海町は14日に空襲を受けた。中標津発厚床行き客貨車が春別駅を出て3、4キロの地点で攻撃され、機関士が死亡した。


【別海空襲の犠牲者】
 氏名判明・・・民間1、船員0、軍人0
 氏名不明・・・民間0、船員0、軍人0


【主要参考文献】
・釧路鉄道管理局『釧路鉄道管理局史』(1972年)
・根室空襲研究会『根室空襲』(1993年)
・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)

2011年9月25日 (日)

根室市

 根室市は14日・15日の両日に空襲を受け、多くの市民が犠牲となった。この空襲については、根室空襲研究会が精力的な調査を行っている。その成果である『根室空襲』には、年齢・住所・死因・被災場所などを記した詳細な犠牲者名簿が収録されている。


 根室空襲研究会の調査では、根室関係の死亡者が210人、船舶関係の軍属・民間人の死亡者・行方不明者が106人確認されている。この他に、軍徴傭船の乗組員の死亡者・行方不明者がいるので、根室空襲全体の犠牲者は400人を超えると同研究会は推定している。


 根室空襲研究会作成の犠牲者名簿を確認したところ、根室関係の死亡者210人のうち、根室市内の陸上で亡くなったのは196人であった。そのうちの1人は氏名不明である。また、名簿には名前がないものの、『根室空襲』に収録された証言から1人の氏名が本調査で判明した。


 根室関係の死亡者210人のうち、海上で亡くなったのは14人である。さらにこのうち4人は小舟に乗っており、残りの10人は浦河丸の乗客であった。本調査では、小舟に乗っていた1人の名前が『根室空襲』の名簿にないと分かったので、新しく記載した。


 根室空襲では浦河丸(東邦水産、343総トン)と東裕丸(飯野海運、1256総トン)という2隻の大きな船舶が沈没した。


 浦河丸は15日に攻撃され、根室港弁天島沖で沈没した。択捉漁業株式会社の社員2名、労務者88名、その家族2名、一般乗客10名、乗組員6名、船舶警戒隊員1名、合計109名が死亡または行方不明となった。一部の乗組員は『根室空襲』で不明とされていたが、『戦没船員名簿』などをあたることにより、氏名が判明した。


 東裕丸は14日・15日と連日の攻撃を受け、根室春国岱沖5キロで沈没した。『戦時船舶史』によれば、船員23名、陸軍船砲隊23名が亡くなったとされる。一方、『根室空襲』によると、地元では79名死亡説が伝わってきたという。『根室空襲』には死亡した26名の船員、6名の船砲隊員の名前が収録されている。本調査で、『戦没船員名簿』をあたったところ、さらに1名の船員の名前を確認できた。また、各地の戦没者名簿を確認した結果、根室港外で亡くなったという船舶機関砲兵第2連隊所属の陸軍兵2人、暁6179部隊所属の陸軍兵2人が見つかった。部隊名から東裕丸に乗船していた可能性が高いと思われる。以上から、船員27名・船砲隊員10名の氏名が明らかとなった 。


 根室では他にも犠牲となった人がいた。『戦没船員名簿』や各地の戦没者名簿から船員や軍人・軍属の名前24人を拾い出すことが出来た。『根室空襲』によれば、米軍が上空から撮影した根室港の写真には幾つもの船影が写っており、相当数の船舶が入港していたと思われるという。これらの船舶に乗っていた人も含まれるだろう。また、陸上でやられた陸軍兵もいたと思われる。


【根室空襲の犠牲者】
 氏名判明・・・民間305、船員45、軍人23
 氏名不明・・・民間  1、船員 0、軍人18


【主要参考文献】
・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・根室空襲研究会『根室空襲』(1993年)
・戦没船員の碑建立会『戦没船員名簿』(1972年)
・駒宮真七郎『戦時船舶史』(1991年)

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