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2011年7月

2011年7月31日 (日)

椴法華村

 椴法華村では15日に空襲があった。『椴法華村史』では4名が亡くなったとされるが、犠牲者の氏名は書かれていない。『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』では、そのうち3名の氏名が明らかになっている 。また、残る1名については青森空襲で亡くなった村民を村史が混同して記録した可能性が指摘されている。


 これら陸上の犠牲者の他に、椴法華村沖で2名の船員が亡くなっていたことが今回判明した。『戦没船員名簿』によれば、第11孝栄丸に乗船していた船員が14日に死亡とされている。調べたところ、栗林機船所属の149総トンの船で椴法華沖で沈没したと分かった 。『北海道空襲』には、機帆船が機銃掃射を受けていたという村民の証言がある。この第11孝栄丸を指しているのかもしれない。

 


【椴法華空襲の犠牲者】

 氏名判明・・・民間人3、船員2、軍人0
 氏名不明・・・民間人0、船員0、軍人0


【主要参考文献】

・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・戦没船員の碑建立会『戦没船員名簿』(1972年)

2011年7月30日 (土)

戸井町

 戸井町では14日と15日の両日に空襲があった。


 14日には汐首地区が襲われた。『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』により、3人の氏名が判明している 。


 15日には瀬田来地区・弁才町・館町が襲われた。『戸井町史』では瀬田来で2名、弁才町で1名、館町で1名が亡くなったとしており、『北海道空襲』でもそれを踏襲している。しかし、氏名は明らかにされないままであった。


 「函館空襲を記録する会」の浅利政俊氏はこれらの記述に疑問を持ち、2008(平成20)年に再調査し、『第2次世界大戦下の戸井村「証言記録」』をまとめている。それによると、新しく4名の氏名が判明している。。


 さらに、2009(平成21)年には、浅利氏の調査により、館町で亡くなった人の氏名も判明している 。


 これまで戸井空襲の犠牲者は7人とされてきたが、以上の人たちを合計すると9人となる。



【戸井空襲の犠牲者】

 氏名判明・・・民間人9、船員0、軍人0
 氏名不明・・・民間人0、船員0、軍人0


【主要参考文献】

・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・浅利政俊『第2次世界大戦下の戸井村「証言記録」』(函館空襲を記録する会,2008年)
・戸井町『戸井町史』(1973年)

2011年7月29日 (金)

函館市

 函館市には14日・15日の両日に空襲があった。この時亡くなった人たちの埋火葬許可証が函館市役所戸籍課に残されており、『函館市史 統計資料編』に79名の性別・年齢・死亡場所・死因の一覧が掲載されている。しかし、埋火葬許可証は戸籍に準じる扱いという理由により、氏名は公表されていない 。また、埋火葬許可証を元にしているために、何らかの事情で函館市内で火葬されなかった人については収録されていない。


 本調査では、「函館空襲を記録する会」の浅利政俊氏の報告資料、札幌郵政局の『殉職録』、『戦没船員名簿』などを確認し、79名のうち42名の氏名が判明した。


 一方、『函館市史 統計資料編』以外の文献・資料から判明した犠牲者が43人いた。これらの中には、『函館市史 統計資料編』に掲載されている人との重複もあると思われるが、断定するまでには至らなかった。

 



【函館空襲の犠牲者】

 氏名判明・・・民間人68、船員6、軍人 2
 氏名不明・・・民間人15、船員0、軍人12


【主要参考文献】

・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・浅利政俊『教えてください、函館空襲を-空襲犠牲者の血みどろの証言から』(幻洋社,1991年)
・浅利政俊『第2次世界大戦下の銭亀沢村 村の少年・少女が語る戦争・空襲・連合軍進駐の新しい歴史掘り起こし記録 証言記録1』(2005年)
・浅利政俊『第2次世界大戦下の銭亀沢村 村の少年・少女が語る戦争・空襲・連合軍進駐の新しい歴史掘り起こし記録 証言記録2』(2005年)
・浅利政俊『第2次世界大戦下の銭亀沢村 村の少年・少女が語る戦争・空襲・連合軍進駐の新しい歴史掘り起こし記録 証言記録3』(2005年)
・浅利政俊『第2次世界大戦下の函館空襲 戦後60年・元函館市立万年橋国民学校児童が語る証言-戦争・空襲・連合軍進駐の新しい歴史掘り起こし記録- 証言記録1』(2005年)
・浅利政俊『平和学習のための戦後58年 米軍機による函館市大門地区(若松町・松風町・大森町)空襲の検証』(2003年)
・函館空襲を記録する会・北海道旅客鉄道労働組合函館地方本部・北海道旅客鉄道労働組合サークル協議会文化部会『平和学習のための戦後60年 米軍機による函館駅・函館桟橋空襲の検証』(2002年)
・函館空襲を記録する会・北海道旅客鉄道労働組合函館地方本部・北海道旅客鉄道労働 組合サークル協議会文化部会『平和学習のための戦後60年 米軍機による松風町第1鉄道寮空襲の検証』(2002年)
・武野伸二「函館空襲を追って-埋火葬許可証の発見から」,『地域史研究はこだて』,第6号,1988年
・戦没船員の碑建立会『戦没船員名簿』(1972年)
・札幌郵政局『殉職録』(1957年)
・函館市史編さん室『函館市史 統計資料編』(函館市,1987年)

2011年7月28日 (木)

上磯町

 上磯町では町民に2人の死者が出た。空襲時に茂別警防団副団長を務めていた方が「昭和二十年七月 茂辺地空襲状況調査」 という一文を残しており、亡くなった2人の死体検案書がその中に収録されている。


 また、上磯町沖合では、駆逐艦「橘」がグラマン機と交戦し、乗員280名のうち135名が戦死、5名が戦傷死した。『平和を見つめて-上磯からの証言』(上磯地方史研究会)に元艦長が、海戦の模様を寄稿している。


 それによれば、14日午前5時40分頃から対空戦闘を開始、函館市上空に乱舞しているグラマン機に主砲の射撃を開始した。しかし、6時40分に機械室に爆弾が命中、航行不能となった。6時50分には爆弾が艦後部に命中し、艦は瞬時に右に大傾斜し、海中に没していった。海上に放り出された生存者たちは約2時間の漂流後に漁船に救助された。重傷者約30名は函館病院に送られ、軽傷者約50名は茂辺地の病院で治療を受けた。戦死者の葬儀は7月末に函館山のお寺で行われたらしい。1956(昭和31)年から1957(昭和32)年にかけて橘の浮揚作業が行われ、船内から80体分の遺骨が収容された。この遺骨は函館市内の極楽寺に安置されているという。



  『平和を見つめて-上磯からの証言』には戦死者135名の名前が収録されているが、病院で亡くなった5名の名前が載っていない。うち1名だけは本調査で判明したものの、あとの4名は明らかに出来なかった。


【上磯空襲の犠牲者】
 氏名判明・・・民間人2、船員1、軍人136
 氏名不明・・・民間人0、船員0、軍人  4



【主要参考文献】

・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・上磯地方史研究会『平和を見つめて-上磯からの証言』(1995年)
・戦争と平和展実行委員会『戦争と上磯町』(1984年)

2011年7月27日 (水)

知内町

 『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』によると、知内沖で第六日鮮丸(八光汽船、521総トン)が空襲を受け、4人の海軍兵が亡くなったとされるが、その氏名は明らかになっていない。陸上では機銃弾が当たった家や焼けた家もあったが、死者・負傷者はなかった。

 

 『戦没船員名簿』を確認したところ、第六日鮮丸に乗船していた船員21人の氏名が判明した。同名簿では乗船名不明とされているが、死亡場所と陸軍軍属船員という身分から第六日鮮丸に乗船していたと思われる人も見つかった。

 

一方、陸軍備砲隊の犠牲者が13人いたとされるが、氏名はつかめなかった。



 『北海道空襲』によると、地元の方が磯舟で漕ぎだし、第六日鮮丸の救助にあたった。また、負傷した兵士たちは松前線の貨車に乗せられて、函館まで運ばれて行ったという。  

 

また、第六日鮮丸以外にも犠牲者の出た船舶があった。知内村字涌元沖で第一菊丸(72総トン)の甲板部員が亡くなっている。

 

【知内空襲の犠牲者】

 氏名判明・・・民間人0、船員23、軍人 0
 氏名不明・・・民間人0、船員 0、軍人13



【主要参考文献】

・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・駒宮真七郎『戦時船舶史』(1991年)
・戦没船員の碑建立会『戦没船員名簿』(1972年)
・戦没船を記録する会『太平洋戦争時の喪失船舶明細表(汽船主体)』
(http://www.ric.hi-ho.ne.jp/senbotusen/siryo-deta/senbotukisenlist.pdf)

2011年7月26日 (火)

福島町

 福島町沖合では7月14日に駆逐艦「柳」(1262排水トン)がグラマン機と交戦し、21人の海軍兵が戦死した。『北海道空襲』『福島町史(第三巻)通説編下巻』に、それらの人たちの氏名が掲載されている。


 町史には、元乗員が、空襲を受けたときの様子や町の人たちによる救助の模様などを記した文を寄稿している。また、防空監視哨で働いていた人たちの目撃証言も記載されている。町には慰霊碑が建てられ、いまも町民によって慰霊されている。

 

【福島空襲の犠牲者】
 氏名判明・・・民間人0、船員0、軍人21
 氏名不明・・・民間人0、船員0、軍人 0


【主要参考文献】
・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・『福島町史(第三巻)通説編下巻』(福島町,1997年)

2011年7月25日 (月)

松前町

 松前町では7月14日に2回の空襲があった。

 『松前町史 通史編第二巻』によると、陸上では民家に機銃弾が当たった程度ですんだが、沖合にいた船舶6隻が座礁・沈没した。15人程度の船員が亡くなり、その多くは小樽海員養成所を出たばかりの青年だったとされているが、氏名は書かれていない

 『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』は、1949(昭和24)年に松前町の役場が焼けた際に書類が失われたために、死者や負傷者の氏名が分からないのではと推測している。

 松前沖で空襲を受けたのは次の船舶である 。
 温州丸(大阪商船、1185総トン)は松前付近の折戸で擱座沈没した。第七和平丸(161総トン)は松前港で攫座した。第十三共同丸(北海船舶、1999総トン)は松前付近で攫座沈没した。下総丸(大阪商船、887総トン)は白神岬南西8キロで沈没した。大征丸(大洋海運、884総トン)は松前付近で沈没した。正●丸(大洋汽船、990総トン)は松前港で沈没した(●は目へんに右)。

 アジア歴史資料センター(http://www.jacar.go.jp/)の資料を検索したところ、大阪商船所属の2隻、温州丸と下総丸の事故報告書が残されていることが判明した。

 「温州丸事故報告書」 によれば、温州丸は第二公福丸・第十三共同丸と船団を組み、小樽港から伏木港に向かう途中、空襲を受けた。船長と船員1人がその日のうちに亡くなり、船員1人が後日函館中央病院で亡くなっている。

 「下総丸事故報告書」 によれば、下総丸は白米490俵などを積載し、13日に函館港外仮泊地を抜錨し、単独で小樽港に向かった。14日朝に艦載機2機から攻撃され、続いて10数機の反復攻撃を受けた。船橋で指揮していた船長は機銃掃射により死亡、船員2人も亡くなった。

 大征丸については詳細な報告は未発見であるが、『戦時船舶史』によると、松前付近において空爆を受け沈没し、船員7名が戦死とされる。『戦没船員名簿』を調べたところ、5名の氏名を発見出来た。

 また、正●丸が空襲を受け、船長が亡くなった顛末について、『松前町史 通史編第二巻』に二等機関士の証言が詳しく記述されている。それによると、7隻の船団で函館から小樽に向かう途中、14日7時30分に空襲を受けたという。しかし、この船が空襲を受けたことを記録した資料は他に見当たらない。それどころか、船名録の類においても該当する船は見つからない。かなり疑問の多い船と言える。

 第七和平丸・第十三共同丸で死者が出たと書いている資料は見つからなかった。


【松前空襲の犠牲者】
 氏名判明・・・民間人0、船員11、軍人0
 氏名不明・・・民間人0、船員 3、軍人0


【主要参考文献】
・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・松前町史編集室『松前町史通説編 第二巻』(松前町,1993年)
・駒宮真七郎『戦時船舶史』(1991年)
・戦没船員の碑建立会『戦没船員名簿』(1972年)
・JACAR(アジア歴史資料センター),Ref.C08050118900.「温州丸事故報告書」.『戦争による遭難船舶事故・海難報告書 (1)あ~し 昭和17年6月~20年7月(3)』,防衛省防衛研究所所蔵
・JACAR(アジア歴史資料センター),Ref.C08050119200.「下総丸事故報告書」.『戦争による遭難船舶事故・海難報告書 (1)あ~し 昭和17年6月~20年7月(6)』,防衛省防衛研究所所蔵

2011年7月24日 (日)

本調査

 名簿作成にあたっては、名前だけではなく、どんな人がどのようにして殺されたのか記録するべきではないかと考えた。そこで、氏名の他にも、年齢・性別・死亡日・職業・死因などを出来る限り調べることにした。

 調査は、道内各地で出された空襲関連の書籍や市町村史といった基本的な文献から名前を拾い出すことより始めた。さらに、遺族会や平和団体・郷土史研究会の出した出版物、学校史・社史・文芸誌・新聞記事・自治体広報などにも目を通した。様々な文献に当たることにより、これまで見落とされてきた人たちの発見につながった。また、ある資料では名前しか記されていなくとも、他の資料によって年齢や職業、空襲時の様子、出身地などが判明することも多かった。

 空襲というと、民間人に目が向きがちである。そのためか、海上で犠牲となった船員や軍人については青函連絡船を除くと、これまであまり注目されてこなかった。しかし、戦う手段も持ち合わせず海上で一方的に殺された船員、また武器を持っていたといえども、機銃掃射を繰り返し爆弾を落としてくる艦載機に対してほとんど勝ち目もなく殺されていった軍人も空襲の犠牲者として記録されるべきだと考え、名簿に収録した。

 名簿は、個々人について、空襲にあった場所、日付、年齢、性別、所属、職業、空襲を受けたときの様子、死因を記載し、出典も明記している。

 調査の結果、2626人の名前が明らかになった。内訳は民間人1134人(男性630人・女性481人・性別不明23人)、船員603人、軍人889人である。また、氏名不明者も入れると、少なくとも2908人が北海道空襲により亡くなったと分かった。

2011年7月23日 (土)

これまでの調査

 1945(昭和20)年からの25年間は空襲や戦災を記録しようという風潮は全国的にほとんど見られなかった。しかし、1970(昭和45)年に「東京空襲を記録する会」が誕生したことがきっかけとなって、空襲を記録しようという運動が全国各地で起こり始めた 。

 北海道では、1971(昭和46)年に他地方に先駆けて釧路戦災記録会が発足、1972(昭和47)年から1974(昭和49)年にかけて、全3巻の『釧路空襲』を発刊した。

 それに続いて、その他の市町村においても、各々の空襲が調査・記録されるようになった。網走市・本別町・函館市・根室市・白糠町・石狩市・十勝地方・噴火湾・国鉄・青函連絡船などへの空襲が、各地の団体・個人によって調査され、書籍となっている。

 空襲だけを扱った出版物の形はとらなくとも、各市町村史の中には空襲に関する記述に多くを割いているところもある。各地の郷土研究誌などにも、空襲に関する論文が多数発表されている。

 全道の空襲被害を網羅しようとする試みも行われてきた。初めてそれに挑戦したのは『ハマナスのかげで-1945年・北海道空襲の記録』(1979年)である。当時判明していた29市町村(平成の大合併前)と青函連絡船での犠牲者数が示されており、それぞれ1183人、412人で、合計すると1595人となる。

 1980(昭和55)年に、全国の空襲被害をまとめた『日本の空襲』(全10巻)が出版された。第1巻では北海道を取り上げており、北海道空襲の犠牲者数は906人とされている(青函連絡船は含まず)。

 1995(平成7)年、菊地慶一著『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』が出版された。この著作によって初めて北海道空襲の全体像が明らかにされた。それによると、檜山地方・宗谷地方を除く全道各地、すなわち78市町村に空襲があり、そのうち56市町村で死者1496人が出たことが判明した。青函連絡船の犠牲者数429人を足して、1925人が北海道空襲により亡くなったとしている。

 その後、2007(平成19)年には改訂版となる『語りつぐ北海道空襲』を発刊、犠牲者も数えなおし、57市町村と青函連絡船で犠牲者数1958人という数字を出している。

 一方、松本尚志氏が2006(平成18)年に発表した報告(『証言 帯広空襲 第四集』)を見ると、50市町村で犠牲者1338人が出たとしており、青函連絡船の犠牲者477人とあわせると全体では1815人となる 。

 しかし、これらの全道的な調査においても、北海道空襲全体の犠牲者を名簿にまとめるまでには至っていなかった。したがって、2000人近い数字のうち、何人の名前が分かっているのかという基本的なことすら不明のままになっていた。

2011年7月22日 (金)

被害の概要

 檜山地方と宗谷地方を除く各地に空襲が繰り広げられた。

 地方の一農村に過ぎなかった本別は各所に爆弾が投下され、機銃掃射が加えられ、40人が死亡した。全人口11962人のうち1915人が罹災し、全2190戸のうち家屋全焼は299戸、大破倒壊は113戸におよんだ 。伊達では、空襲してはならないはずの赤十字病院に対して攻撃が加えられ、4人が亡くなった 。厚田では民家に爆弾が投下され、子どもたちが犠牲となった 。石狩や浦河など多くの市町村でも民家が攻撃された。飛行機を見て手を振っていた子どもが機銃掃射を受けたという話も複数の場所で伝わっている 。釧路市や根室では市街地全体に対して大規模な攻撃が繰り広げられ、多くの人たちが亡くなった。津軽海峡では、海面を漂流していた船員や兵士に容赦なく機銃掃射が加えられた 。

 本来は攻撃目標が指定されていたのだが、実際には、目に付いたありとあらゆる人やものに対して米軍は無差別攻撃を行ったのである。

 また、空襲の他に、15日に戦艦アイオワ・ミズーリ・ウイスコンシンと軽巡2隻・駆逐艦9隻からなる第34.8.2任務隊が室蘭へ艦砲射撃を行った 。目標は日本製鋼所と日本製鉄所だったが、周囲の民家や社宅街にもたくさんの砲弾が落下し、多くの人が亡くなった。

 二日間の空襲と艦砲射撃により、3000人近くの人々が殺され、多くの負傷者が出た。家屋の損害なども大きかった。

 日本側が受けた打撃は致命的なものであった。青函連絡船はすべて沈没もしくは損傷を受け、艦艇や輸送船も至るところで沈没し、本州と北海道を結ぶ物流は崩壊した。室蘭の軍需工場も壊滅した。アメリカ側の目的であった日本艦隊の殲滅、工業と資源の破壊は十分に成功したと言える。

2011年7月21日 (木)

アメリカ海軍第38機動部隊

 北海道空襲は、アメリカ海軍第3艦隊第38任務部隊により1945(昭和20)年7月14日・15日に行われた。また、15日には第34.8.2任務隊が室蘭へ艦砲射撃を加えた。

 本州以南への空襲は主にB29によって行われたが、北海道にはB29による空襲はなかった。その理由は、B29が基地としていたマリアナ諸島のサイパン・テニアン・グアムとの距離にある。B29が爆弾8トンを搭載した場合、無給油航続距離は6070キロ、爆弾3トンを搭載した場合は8150キロだった 。サイパンから札幌までの距離は3123キロ、青森までの距離は2886キロであり、8トン爆弾を積んだB29が飛来できる最大距離は北東北付近であったことが分かる。

 7月1日、第3艦隊がレイテ湾を出発した。アメリカ海軍作戦本部長キング元帥の言によれば、その任務の目的は、日本艦隊の殲滅を完了すること、また日本本土侵攻作戦の前に全ての工業と資源を破壊すること、さらに日本の戦意を低下させることであった 。

 第3艦隊第38任務部隊は、第38.1、第38.2、第38.4の任務群から成りたっており、空母7隻、軽空母6隻、戦艦8隻、巡洋艦17隻、駆逐艦61隻が属する大艦隊だった 。

 14日・15日、第38任務部隊は、北海道・本州北部に対する攻撃隊を発進させた。第38.1任務群は主に道北および道東、第38.2任務群は津軽海峡および本州北部、第38.4任務群は道央および道南を担当した。

 任務群全体では14日に868機、15日に812機が飛行可能な状態であり、両日とも4~5波の攻撃隊が出動した。機種の内訳は戦闘機(グラマンF6F-5)、夜間戦闘機(グラマンF6F-5N)、戦闘爆撃機(ヴォートF4U-1D、ヴォートFG-1D)、爆撃機(カーチスSB2C-4、カーチスSB2C-4E)、攻撃機(グラマンTBM-3、グラマンTBM-3E)、撮影戦闘機(グラマンF6F-5P)であった。攻撃隊は、14日に334.835トン、15日に330.17トンの爆弾を投下した。また、発射した5インチロケット弾は14日に1726発、15日には2007発に及んだ 。

 アメリカ軍の攻撃は日本側にとって予想しない出来事だった。航空機による反撃は全くなされなかったが、陸上や艦船からの対空砲火が米軍機を撃墜している。アメリカ側の記録によると、2日間に40機が失われているが、うち20機は着艦時の事故によるものなどであり、戦闘によって失われたのは20機に過ぎない。その内訳は道南方面1機、函館4機、厚岸1機、釜石1機、樽前山1機、小樽2機、寿都1機、留萌1機、室蘭2機、八戸1機、松島1機、志津川湾1機であった 。ほとんどは対空砲火により撃墜されている。ただし、寿都の1機については米軍記録の誤りで正しくは岩内である 。米軍が出した戦死者と行方不明者は22名だが、そのうち4名は戦後に生存が確認されたため、亡くなったのは18名となる 。

2011年7月20日 (水)

当ブログについて

 北海道空襲は1945(昭和20)年7月14日から15日の二日間にわたって、米軍艦載機によって繰り広げられました。多くの人々がこの空襲により犠牲となりました。その人数はこれまで1958人とされてきました(菊地慶一『語りつぐ北海道空襲』、北海道新聞社、2007年)。しかし、犠牲者名を全道的に明らかにして一つの名簿にまとめるという試みはなされてきませんでした。

 私は、2010年6月から2011年6月まで、犠牲者名簿を作成するべく、文献や資料を調査し、当時を知る人への聞き取りなども行いました。その結果、北海道空襲による犠牲者2626人の名前が明らかになり、氏名不明者を含めると、少なくとも2908人が亡くなっていたことが判明しました。2011年7月には、調査結果をまとめた『北海道空襲犠牲者名簿』を自費出版しました。犠牲者名簿の他、名簿の解説、統計資料、犠牲者地図を収録しております。

 本ブログでは、小著より抜粋して、各地の空襲の様子や犠牲者数、参考文献などを紹介いたします。ご遺族や研究者、空襲に関心のある皆さんの参考になれば幸いです。

 なお、亡くなられた方々のお名前についてはブログでは公開いたしませんので、ご質問があればメールにてお問い合わせください。その他、ご意見やご指摘についてもメールでお願いします。

 『北海道空襲犠牲者名簿』は、A4版、モノクロ印刷、220ページ、1部1200円、送料160円です。メールを頂ければお送りいたします。紀伊國屋書店札幌店、寿都町道の駅でも販売しています。Meibo_2

 また、北海道空襲を記録する会『悲しみの夏 語りつぐ北海道空襲補遺Ⅱ』に、当名簿から氏名一覧を提供しました。この本には、北海道空襲に遭われた道内・道外各地の皆さん36人が生々しい証言を寄せています。1部1000円。ご興味がある方には、小著と一緒にお送りいたします。

 メールアドレスはminamisiribesi(at)hotmail.co.jpです。(at)を@に変更して送信願います。

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