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2011年8月

2011年8月31日 (水)

留萌市

 留萌市では15日に空襲があった。

 

 『ハマナスのかげで』によると、国鉄機関助士と貨物船大源丸の乗組員が亡くなった。この乗組員については、『戦没船員名簿』に該当者が見当たらず、氏名を判明させることは出来なかった。


 これまではこの2名のみが留萌空襲の犠牲者だとされてきたが、『悲しみの夏-語りつぐ北海道空襲補遺Ⅰ』によれば、留萌町立病院の入院患者が避難した防空壕の中で亡くなったという。また、一人の陸軍兵が腹部を撃たれて留萌町立病院に運ばれ、開腹手術により弾丸を取り出したが、死亡したとのことである。


【留萌空襲の犠牲者】
 氏名判明・・・民間2、船員0、軍人0
 氏名不明・・・民間0、船員1、軍人1


【主要参考文献】
・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・先生のつづる戦争の記録刊行会『ハマナスのかげで-1945年・北海道空襲の記録』(北書房,1979年)
・北海道空襲を記録する会『悲しみの夏-語りつぐ北海道空襲補遺Ⅰ』(2010年)

2011年8月26日 (金)

増毛町

 増毛町は15日に空襲を受けた。雄冬に爆弾16発が投下されたが、陸上では死者はなかった。


 一方、海上では犠牲者が出た。『北海道空襲』には「遺体がうんざりするくらい上がった」という証言が収録されている。『増毛町史』にも七洋丸・大正丸が爆撃・機銃掃射を受け沈没と書かれている。しかし、その人数や犠牲者名はこれまで明らかにされてこなかった。


 『戦時船舶史』によれば、第一大正丸(日本海洋漁業、605総トン)が雄冬岬沖で沈没し、船員5名が死亡とされる。『戦没船員名簿』を確認したところ、確かに5人の氏名を確認できた。


 同じく『戦時船舶史』によれば、七洋丸(朝鮮郵船、1948総トン)は雄冬岬北北西8キロ付近で空爆を受け沈没しているが、死者の数が書かれていない。『戦没船員名簿』を確認したところ、6人の犠牲者を確認できた。うんざりするほどの遺体という証言からすると、他に軍人などの犠牲者が出ているのかもしれないが、裏付ける資料を見つけることは出来なかった。


【増毛空襲の犠牲者】
 氏名判明・・・民間0、船員11、軍人0
 氏名不明・・・民間0、船員 0、軍人0


【主要参考文献】
・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・駒宮真七郎『戦時船舶史』(1991年)
・戦没船員の碑建立会『戦没船員名簿』(1972年)

2011年8月25日 (木)

門別町

 門別町は14日に空襲を受けた。『日高における戦争の記録』は、町内の豊郷駅が攻撃され、死者5名が出たとしているが、氏名は示していない。『北海道空襲』では、このうち3名の氏名を明らかにしている。また、本調査で各文献を確認したところ、2名の氏名が判明した。


 その他にも、『門別町史』『日高における戦争の記録』『北海道空襲』のいずれにも書かれていないが、門別町では豊郷駅以外にも空襲犠牲者が出ていた。門別町郷土史研究会による『門別町郷土史調査シリーズ第三集 門別空襲と戦争の記憶』によれば、富川地区で2名が亡くなっていた。


 門別町内の犠牲者はこれまでの全道統計では5人とされてきたが、少なくとも9人が亡くなっていたことが判明した。


【門別空襲の犠牲者】
 氏名判明・・・民間8、船員0、軍人0
 氏名不明・・・民間1、船員0、軍人0


【主要参考文献】
・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・北海道教職員組合日高支部平和教育検討推進委員会『子どもたちへ伝える戦争-平和教育の展開のために 』(1989年)
・門別町郷土史研究会『門別町郷土史調査シリーズ第三集 門別空襲と戦争の記憶』(1996年)
・札幌郵政局『殉職録』(1957年)
・北海道教職員組合日高支部『日高における戦争の記録』(1991年)

2011年8月24日 (水)

新冠町

 新冠町は15日に空襲を受けた。『新冠町史』によると、磯船に乗ってタコ漁をしていた2名が攻撃を受けて即死した。


 また、200トンくらいの貨物船がグラマン機の襲撃を受けて沈没したともあるが、詳細は書かれていない。ところが、『根室空襲』に、新冠郡節婦沖1.5海里で空襲を受けた船について書かれているのを発見した。それによれば、海軍徴傭船、第一西久丸(根室の坂本商店・薪炭運搬船、63総トン) が浦河港から室蘭港に航行中、敵機に攻撃され炎上沈没し、4名が亡くなった。遺体は節婦に埋葬され、遺族が後に引き取りに行ったという。トン数は少し異なるものの、町史にある貨物船はこの船に間違いないだろう。


【新冠空襲の犠牲者】
 氏名判明・・・民間2、船員4、軍人0
 氏名不明・・・民間0、船員0、軍人0


【主要参考文献】
・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・新冠町史編さん委員会『新冠町史』(新冠町,1966年)
・根室空襲研究会『根室空襲』(1993年)
・戦没船員の碑建立会『戦没船員名簿』(1972年)

2011年8月23日 (火)

静内町

 『静内町史(増補改訂版)』によると、静内町では14日・15日の両日に空襲があった。


 15日に3人の漁業関係者が東静内の沖合で機銃掃射を受け、死亡している。東静内の金比羅神社にある戦没者慰霊碑には、東静内出身の戦死者とともに3人の名前が刻まれている。

 町史では、もう一人が亡くなったとされているが、静内町民ではあるが門別町で空襲を受けている。したがって本調査では門別町の犠牲者とした。


【静内空襲の犠牲者】
 氏名判明・・・民間3、船員0、軍人0
 氏名不明・・・民間0、船員0、軍人0


【主要参考文献】
・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・北海道教職員組合日高支部『日高における戦争の記録』(1991年)
・静内町史編さん委員会『静内町史(増補改訂版)』(静内町,1975年)

2011年8月22日 (月)

浦河町

 浦河町には15日に空襲があり、東京から疎開してきていた子どもや地元町民が亡くなった。『浦河百話』にその模様が詳しく記されている。


【浦河空襲の犠牲者】
 氏名判明・・・民間5、船員0、軍人0
 氏名不明・・・民間0、船員0、軍人0


【主要参考文献】
・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・菊地慶一『語りつぐ北海道空襲』(北海道新聞社,2007年)
・グルッペ21うらかわ『浦河百話-愛しき、この大地よ』(共同文化社,1991年)
・石田昭『忠烈芳千古-太平洋戦争を戦った浦河の青年 付 私と太平洋戦争』(1990年)
・浦河町『広報うらかわ』第604号,2007年8月

2011年8月21日 (日)

様似町

 様似町には14日に空襲があり、国民学校高等科生徒が死亡した。


【様似空襲の犠牲者】
 氏名判明・・・民間1、船員0、軍人0
 氏名不明・・・民間0、船員0、軍人0


【主要参考文献】
・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・様似町史編さん委員会『改訂 様似町史』(様似町,1992年)

2011年8月20日 (土)

厚田村

 厚田村では15日に空襲があり、厚田・古潭・望来地区が攻撃を受けた。


 望来自治連合会が出版した『埋もれた墓標』には望来地区の被災が詳細に記されている。望来では11人が亡くなり、そのうち6人が子どもであった。望来地区には「平和祈念碑」があり、空襲犠牲者の名が刻まれている。


 また、望来への空襲の前に、厚田地区と古潭地区がやられている。厚田地区では、一人が負傷し、8月に亡くなっている。


 古潭では、小学校が焼失するなどの被害があったが、負傷者のみで済んでいる。


【厚田空襲の犠牲者】
 氏名判明・・・民間12、船員0、軍人0
 氏名不明・・・民間 0、船員0、軍人0


【主要参考文献】
・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・望来自治連合会『埋もれた墓標』(1992年)

2011年8月19日 (金)

石狩市

 石狩市には15日に空襲があり、地元の人たち13人が犠牲となった。また、家屋の損害も多く、36戸が焼失、224戸が倒壊・破損した。当時の石狩町役場の「戦災記録簿」「罹災者名簿」が残されており、『石狩の空襲を語りつぐ』に空襲の模様が詳細に記録されている。犠牲者の氏名も全員判明しており、さらに亡くなったときの様子についても詳しい。

【石狩空襲の犠牲者】
 氏名判明・・・民間13、船員0、軍人0
 氏名不明・・・民間 0、船員0、軍人0


【主要参考文献】
・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・石狩町郷土研究会『いしかり郷土シリーズ 1-石狩の空襲を語りつぐ』(1987年)

2011年8月18日 (木)

江別市

 江別市では15日に空襲があり、王子航空機江別製作所や江別発電所が狙われた。4人の死者が出たことが確認されている。いずれも地元の人たちであった。


 『鉄路風雲』によると、以上の他にもう1人の死者が出たとされる。根室発函館行きの第408列車が厚別・野幌間で空襲を受け、防雪林に避難した妊娠中の女性が亡くなったという。しかし、『えべつ昭和史 1926-1993』では、この列車に死者はなかったとされている。さらなる調査が必要であろう。


【江別空襲の犠牲者】
 氏名判明・・・民間4、船員0、軍人0
 氏名不明・・・民間1、船員0、軍人0


【主要参考文献】
・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・江別市総務部『えべつ昭和史 1926-1993』(江別市,1995年)
・岩崎正『鉄路風雲-道南鉄道空襲記録』(1979年)

2011年8月17日 (水)

札幌市

 札幌市では15日に空襲があり、丘珠の農家の方が自宅で機銃掃射を受け亡くなった。


【札幌空襲の犠牲者】
 氏名判明・・・民間1、船員0、軍人0
 氏名不明・・・民間0、船員0、軍人0


【主要参考文献】
・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・丘珠百二十年史編纂委員会『丘珠百二十年史』(1991年)

2011年8月16日 (火)

小樽市

 小樽市への空襲は15日に行われた。海上にも陸上にも攻撃が加えられた。海上では、第55号海防艦(810排水トン)・第47号海防艦(810排水トン)・海防艦「笠戸」(870排水トン)、汽船昭華丸(東和汽船、1931総トン)・信濃丸(日魯漁業、6254総トン)・山東丸(坂井汽船、1890総トン)が空襲を受け、海軍兵や船員・労務者が亡くなった。陸上では、銭函駅や張碓鉄道官舎・手宮台陣地などに空襲があり、民間人や陸軍兵が犠牲となっている。


 『小樽市史』の空襲関連の記述は簡単に済まされ、犠牲者については何も書かれていない。しかし、北海道新聞記者や「いつまでも戦争を忘れない小樽教師の会」が調査をすすめ、小樽市役所に保存されていた執葬認許証などから犠牲者数が33人であることを明らかにし、そのうち32人の氏名を判明させている。このように、小樽空襲については市民が中心となって細かい調査がなされてきたが、1名の漏れがあったことが今回判明した。


 『戦時船舶史』によると、小樽港で汽船昭華丸が沈没し、5人の船員が犠牲となっている。そこで、『戦没船員名簿』をあたったところ、たしかに5人の名前を発見した。このうち4名については、「いつまでも戦争を忘れない小樽教師の会」作成の名簿にも掲載されていた。しかし、1人だけ洩れていた。なんらかの理由により、市役所に執葬認許証が残されていなかったのだろう。小樽空襲の犠牲者は1人増えて34人となる。


【小樽空襲の犠牲者】
 氏名判明・・・民間11、船員7、軍人15
 氏名不明・・・民間 1、船員0、軍人0


【主要参考文献】
・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・いつまでも戦争を忘れない小樽教師の会『小樽の戦争〜証言・資料集 4-昭和二十年七月十五日の小樽 小樽空襲の記録 その1』(1987年)
・海防艦顕彰会『海防艦戦記』(1982年)
・駒宮真七郎『戦時船舶史』(1991年)
・戦没船員の碑建立会『戦没船員名簿』(1972年)

2011年8月15日 (月)

余市町

 余市町には空襲はあったものの、死者はなかったとされてきた。『北海道空襲』によれば、駐留していた暁部隊(陸軍船舶兵)が船舶の訓練を行っており、米軍機に狙われたが威嚇程度で終わったという。また、爆弾2発が落とされたが、死傷者はなかったという証言が残っている。


 しかし、今回調査したところ、15日に余市で亡くなった船員4名が見つかった。全員が札幌陸軍軍需品廠の所属だったようだ。威嚇程度の攻撃しか受けなかったとされてきた暁部隊は実際には大きな被害を被り、死者まで出たというのが事実なのであろう。ただ、暁部隊が攻撃を受けたとすると、船員しか亡くなっていないとは考えづらい。陸軍兵も犠牲になったのではないかと思われるが、裏付ける資料は見つけられなかった。


【余市空襲の犠牲者】
 氏名判明・・・民間0、船員4、軍人0
 氏名不明・・・民間0、船員0、軍人0


【主要参考文献】
・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・戦没船員の碑建立会『戦没船員名簿』(1972年)

2011年8月14日 (日)

古平町

 古平町では15日に空襲があり、稲倉石鉱業所のマンガン鉱石を積み込んでいた射水丸(栗林商船、986総トン)が沈没した。『古平町史 第三巻』が、亡くなった船員14名、積み込み作業員5名の氏名を寺の過去町から明らかにしている 。この他、のちに船を解体処理したときに発見された2名の氏名不明者があり、合計21人が空襲の犠牲者とされてきた。一方、23人という説もあるものの、未確認となっていた。


 本調査で、『戦没船員名簿』を当たったところ、『古平町史 第三巻』に名前のない射水丸船員4名が15日に死去していることが判明した。したがって、古平空襲による犠牲者は23人という説が正しい。


【古平空襲の犠牲者】
 氏名判明・・・民間5、船員18、軍人0
 氏名不明・・・民間0、船員 0、軍人0


【主要参考文献】
・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・古平町史編纂委員会『古平町史 第三巻』(古平町,1998年)
・戦没船員の碑建立会『戦没船員名簿』(1972年)

2011年8月13日 (土)

積丹町

 積丹町では15日に輸送船祥保丸(日本郵船、1327総トン)が沖合で空襲を受け沈没し13名が犠牲となった。『積丹町史』や『北海道空襲』では犠牲者の氏名は不詳とされている。


 祥保丸の被災の様子は『日本郵船戦時船史 下巻』に詳細が記されている。それによると、石炭1840トンと身欠き鰊167俵を積んで13日に留萌港を出港し、酒田港に向けての航行中に攻撃を受け、午前6時13分に沈没したという。この時、10人の船員と3人の軍人が亡くなった。船員については全員の氏名が掲載されている。


 一方、軍人については全員の氏名が不明である。そもそも陸軍兵だったのか海軍兵だったのかも定かでない。


 積丹町余別では戦死者の一部を仮埋葬した。その後、1954年に日本郵船の小樽支店長が現地に赴き、遺体を荼毘に付して、法要を営んだという。


【積丹空襲の犠牲者】
 氏名判明・・・民間0、船員10、軍人0
 氏名不明・・・民間0、船員 0、軍人3


【主要参考文献】
・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・日本郵船『日本郵船戦時船史 下巻』(1971年)
・戦没船員の碑建立会『戦没船員名簿』(1972年)

2011年8月12日 (金)

岩内町

 岩内町では15日に空襲があり、沖合にいた油槽船の八禮丸(2217総トン)で犠牲者が出た。


 『岩内町史』によれば、海軍兵(船舶警戒隊)の4名が船中で死亡、2名が岩内協会病院で死亡した。他の病院に運ばれて死亡した人もあった可能性もあるが、それについては不明であるとしている。


 今回の調査では、もう一人の犠牲者がいたことが判明した。『戦没船員名簿』の中に、八禮丸の機関長が15日に亡くなったと記されていた。詳しい状況は不明だが、おそらく岩内協会病院以外の病院に運ばれ死亡したために、町史に残らなかったのではないだろうか。


【岩内空襲の犠牲者】
 氏名判明・・・民間0、船員1、軍人6
 氏名不明・・・民間0、船員0、軍人0


【主要参考文献】
・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・岩内町『岩内町史』(1966年)
・戦没船員の碑建立会『戦没船員名簿』(1972年)

2011年8月11日 (木)

寿都町

 寿都町では15日に空襲があった。寿都湾に前日から停泊していた東海丸(大図汽船、3099総トン)が攻撃され、船員・海軍兵(船舶警戒隊)・陸軍将校あわせて16人が死亡した。寿都町役場の調査により、このうち船員7名・海軍兵1名の氏名が判明し、『北海道空襲』に掲載されている。


 私もこの空襲の調査を行い、2009年に『寿都空襲』を自費出版したが、その時点では他の8名の氏名はまったく不明だった。しかし、その後の調査で当時東海丸に乗り組んでいた海軍兵が大阪府に健在であることが分かり、お会いしたところ、一人の海軍兵の氏名を教えてくれた。


 犠牲者は町内で火葬され、葬儀も行われたという。亡くなった人たちを弔う慰霊碑が町内の龍洞院にあり、毎年7月に慰霊祭が行われている。


【寿都空襲の犠牲者】
 氏名判明・・・民間0、船員7、軍人2
 氏名不明・・・民間0、船員0、軍人7


【主要参考文献】
・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・山本竜也『寿都空襲-南後志をたずねて〔一〕』(2009年)

2011年8月10日 (水)

厚真町

 厚真町には14日・15日の両日に空襲があった。


 14日には浜厚真の漁場主と漁民が機銃掃射を受け死亡した。ともに氏名は判明している。

 15日には浜厚真の沖合で、駐屯部隊の漁労班乗り込みの漁船が攻撃された。この時2人の兵士が即死しているが、『厚真村史』『北海道空襲』などには氏名は掲載されていない。


【厚真空襲の犠牲者】
 氏名判明・・・民間2、船員0、軍人1
 氏名不明・・・民間0、船員0、軍人1


【主要参考文献】
・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・厚真村広報委員会『厚真村史』(厚真村,1956年)

2011年8月 9日 (火)

苫小牧市

 苫小牧市では14日・15日に空襲があった。


 14日の空襲では、ニシタップ浜(現錦岡)で漁に出ていた漁民が4人空襲に遭い、亡くなった。また、苫小牧駐屯部隊が漁場に派遣していた兵士が1人亡くなったが、名前は不明である。


 また、論文「1945.7.14・15~苫小牧の空襲・戦後50年を考える~」によれば、王子製紙工場前にあった防空監視塔で14日に軍人が全身に銃撃を受け死亡したとされる。この事実を記している資料・文献は他には見つからなかった。


 15日には航空機乗員の犠牲者が出ている。四式爆撃機「飛龍」(キ-67)が樺太落合から長野県松本に向かう途中に千歳上空でグラマンの攻撃を受け、苫小牧市柏原の雑木林に墜落し、乗員7名のうち6名が死亡した。北海道空襲で日本軍の航空機が攻撃され墜落した唯一の事例であった。現地には「六勇士戦死の碑」が建てられ、いまでも地元の人たちによって慰霊されている。


【苫小牧空襲の犠牲者】
 氏名判明・・・民間4、船員0、軍人6
 氏名不明・・・民間0、船員0、軍人2


【主要参考文献】
・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・髙橋稔『とまこまいの石碑』(苫小牧郷土文化研究会,2001年)

2011年8月 8日 (月)

室蘭市

 室蘭市では、14日に空襲、15日に艦砲射撃があった。北海道で艦砲射撃を受けたのは室蘭市のみだった。両日あわせての犠牲者数は道内一となっている。


 犠牲者の数は資料によって異なっている。1949(昭和24)年に経済安定本部が発表した「太平洋戦争による我国の被害総合報告書」によれば393人、アメリカの国立公文書館に保管されている室蘭市戦災関係文書によれば439人とされている 。これらの人数に軍関係者は含まれていないという。また、根拠となる資料もはっきりしていない。


 室蘭への空襲・艦砲射撃で犠牲になった民間人については『室蘭戦災誌』巻末に340人の氏名が掲載されている 。 


 本調査においては、軍人・船員についても可能な限り資料を探索し、犠牲者名の収集に努めた。


 14日の室蘭は、港内にいた船舶への攻撃が繰り広げられた。第65号海防艦(810排水トン)と第74号海防艦(900排水トン)が撃沈され、乗り組んでいた海軍兵約200名ずつのうち、それぞれ27人と23人が亡くなっている。これらの人たちの氏名は『海防艦戦記』に明記されていることから名簿に収録できた。


 また、特設運送船・第一雲洋丸(2039総トン)が京浜港への出港準備中に空襲に遭った。『新室蘭市史 第4巻』によると、艦長ら数十人が戦死とされているが、正確な人数は記載されていない。しかし、本調査では、室蘭港で戦死したとされる海軍兵が何人か見つかった。これらの人たちが第一雲洋丸に乗り組んでいた可能性はある。


 その他に小さな船舶が多く沈められ、船員が亡くなっている。佐賀丸(198総トン)では3人、長栄丸(138総トン)では3人、第3幸運丸(196総トン)では4人、第23北隆丸(155総トン)では5人、明正丸(181総トン)では1人の死者が出た。これらの人たちの名は『戦没船員名簿』から明らかになった。


 空襲は海上が中心であったが、陸上にも被害が出ている。『新室蘭市史 第4巻』では6人または12人の民間人が亡くなったとされている。今回の調査において、14日の攻撃により亡くなったと断言できる民間人は2名のみであった。


 15日、室蘭市には大規模な艦砲射撃が行われた。戦艦アイオワ・ウイスコンシン・ミズーリという3隻の戦艦から日鋼に向けて16インチ砲弾414発が発射された。日鉄には446発が発射された 。この攻撃により、日鋼・日鉄社員のほか、周辺の住宅も大きな被害を受け、多数の一般市民が亡くなった。


 『室蘭戦災誌』には、空襲・艦砲射撃の犠牲となった人たちの氏名が収録されているが、年齢や死因・死亡日などは記載されていない。大部分の人たちは15日の艦砲射撃により亡くなったと思われる。しかし、死亡日を断定するに至らない人が大半である。


 『室蘭戦災誌』によれば、日鋼関係者は112名が亡くなっている。一方、名簿には120名が登載されている。部外の人が8名混じっているとのことである。


 日鉄関係者は182名が亡くなったとされるが、『室蘭戦災誌』の名簿には98名の名前しかない。すなわち84名が氏名不詳となっている。本調査で、日鉄関係者の名前が3名新しく判明したが、それでも81名の氏名が不明のままである。


 その他、北海道新聞・室蘭民報の艦砲射撃関連記事や市民の自分史、学校史、各地の戦没者名簿などで犠牲者に関する記述を探し、名簿に反映させた。しかし、室蘭市の犠牲者はあまりにも多く、情報のない方が大半であったため、「?」を十分に埋めることが出来ないまま調査を終えることになった。


【室蘭空襲および艦砲射撃の犠牲者】
 氏名判明:民間355、船員16、軍人59
 氏名不明:民間 87、船員 1、軍人 5


【主要参考文献】
・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・室蘭地方史研究会『室蘭戦災誌-空襲と艦砲射撃の記録』(室蘭市教育委員会,1983年)
・室蘭地方史研究会『室蘭地方史研究』第11号(1977年)
・室蘭地方史研究会『室蘭地方史研究』第13号(1979年)
・室蘭地方史研究会『茂呂瀾 室蘭地方史研究』第30号(1995年)
・富盛菊枝『いたどり谷にきえたふたり』(太平出版社,1985年)
・北海道室蘭商業高等学校『室商五十年のあゆみ』(1974年)
・室蘭栄高等学校創立80周年記念協賛会『北海道室蘭栄高等学校創立80周年記念誌 栄えよわれらが母校』
・宮川績『太平洋浪高し』(到知出版,1990年)
・真宗大谷派東圓山廣徳寺沿革誌編集委員会『光炎-真宗大谷派東圓山廣徳寺沿革誌』(1992年)
・道南バス株式会社『道南バス四十年史』(1966年)

2011年8月 7日 (日)

伊達市

 伊達市への空襲は14日にあった。攻撃されたのは伊達赤十字病院・稀府病院・伊達紋別駅などであった。


 伊達市の地域情報紙『とりっくすたあ』に伊達空襲の特集が組まれたことがあった。そこでは、赤十字病院に残されていた戦災関係者の書類から死亡者の氏名や攻撃を受けた場所などが明らかにされている。病院への空襲による死者は4名で、看護婦・看護学生・入院患者がやられている。


 稀府駅への空襲による死者は15名であった。函館発稚内行きの第307列車(函館発稚内行き)が攻撃され、国鉄職員や旅客が犠牲となった。伊達紋別駅への空襲による死者は2名であり、駅助役と寮賄い婦が亡くなっている。


 これら以外にも犠牲者が出たという資料もある。『新室蘭市史 第4巻』には、黄金駅で函館発稚内行きの客第305列車が空襲され、4名が死亡したとされている。しかし、この空襲についての記録は他には見当たらない。また、当時の時刻表には第305列車という名前はない。稀府駅の第307列車への空襲と混同しているのではないだろうか 。


【伊達空襲の犠牲者】
 氏名判明:民間19、船員0、軍人1
 氏名不明:民間 1、船員0、軍人0


【主要参考文献】
・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・トリックスター出版「特集 伊達空襲in1945.7.14」,『とりっくすたあ』,第9号,1985年
・伊達郷土史研究会『伊達の風土』第13号(1994年)
・日本赤十字社北海道支部『北海道の赤十字 その百年』(1987年)

2011年8月 6日 (土)

長万部町

 長万部町への空襲は14日にあり、長万部駅が攻撃された。4名が亡くなり、そのうち3名は『鉄路風雲』に氏名がある。いずれも国鉄職員であった。たまたま旅客列車がホームにいなかったため、乗客には被害がなかった。


 また、『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』によると、鉄道官舎にいた奥さんが亡くなったと判明している 。

 


【長万部空襲の犠牲者】

 氏名判明・・・民間人4、船員0、軍人0
 氏名不明・・・民間人0、船員0、軍人0


【主要参考文献】

・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・岩崎正『鉄路風雲-道南鉄道空襲記録』(1979年)

2011年8月 5日 (金)

八雲町

 八雲町への空襲は14日にあった。出漁中の漁民2名がやられている。



 

【八雲空襲の犠牲者】

 氏名判明・・・民間人2、船員0、軍人0
 氏名不明・・・民間人0、船員0、軍人0


【主要参考文献】

・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・八雲町史編さん委員会『改訂八雲町史 下巻』(八雲町役場,1984年)

2011年8月 4日 (木)

砂原町

 砂原町では14日に空襲があった。攻撃されたのは渡島砂原駅・渡島沼尻信号場間を走っていた上り第40列車である。『鉄路風雲』によると、函館車掌区の車掌が頭部貫通銃創により亡くなっている。また、『噴火湾空襲』によると、4人の乗客が亡くなっており、そのうち3人の氏名が判明している。



 

【砂原空襲の犠牲者】

 氏名判明・・・民間人5、船員0、軍人0
 氏名不明・・・民間人1、船員0、軍人0


【主要参考文献】

・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・岩崎正『鉄路風雲-道南鉄道空襲記録』(1979年)
・荒木恵吾『噴火湾空襲』(1989年)

2011年8月 3日 (水)

森町

 森町への空襲は14日にあり、列車が狙われた。『鉄路風雲-道南鉄道空襲記録』(岩崎正)によれば、森駅付近で下り第255列車、石谷駅・本石倉信号場間で下り第267列車がやられ、死者が出た。


 第255列車では、機関助士が亡くなっている。乗客が亡くなったことも確からしいが、『鉄路風雲』では1~3名とされていて氏名も不明である。また、沿線住民2名が自宅にいるところをやられて死亡した。『鉄路風雲』『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』の出版後に、森町の郷土史家により、もう1人の周辺住民も犠牲になったことが突き止められている 。


 第267列車では、機関助士が機銃掃射を受け亡くなった。また、沿線住民の母子も亡くなったが、その名は不明のままである。



 

【森空襲の犠牲者】

 氏名判明・・・民間人5、船員0、軍人0
 氏名不明・・・民間人3、船員0、軍人0


【主要参考文献】

・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・岩崎正『鉄路風雲-道南鉄道空襲記録』(1979年)

2011年8月 2日 (火)

鹿部町

 鹿部町では14日・15日両日に空襲があり、陸上・海上ともに死者が出た。


 『鹿部町史』によると、14日に輸送船2隻が船入澗で攻撃され生存者2名のみ、また沖合の輸送船からも遺体6~7名を揚げたとある。『噴火湾空襲』には、同町の東光寺に保管されていた13人分の埋火葬認許下附願が収録されている。そこには乗船名は書かれていないが、『戦没船員名簿』などを確認したところ、第三星丸(北部機帆、148総トン)・明神丸(中谷武右衛門、59総トン)・千歳丸(海軍特設船雑用、177総トン)・第二神威丸(三井機船、247総トン)・神栄丸(田子村水産、53総トン)に乗っていた船員であったことが判明した。


 15日には、土砂崩れにより防空壕が押しつぶされ、子ども4人が死亡している。こちらについては『北海道空襲』に詳しい。

 


【鹿部空襲の犠牲者】

 氏名判明・・・民間人4、船員13、軍人1
 氏名不明・・・民間人0、船員 0、軍人0


【主要参考文献】

・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・戦没船員の碑建立会『戦没船員名簿』(1972年)
・荒木恵吾『噴火湾空襲』(1989年)

2011年8月 1日 (月)

南茅部町

 南茅部町では14日・15日の両日ともに空襲があった。陸上では死者はなかったが、負傷者や全焼した家があった。海上では4人の死者が出た。


 『噴火湾空襲』には、14日に旧臼尻村の沖合で船がやられて死者がでたという証言が複数収録されている。『南茅部町史 下巻』では、臼尻に艦載機がのべ10機来襲し、船舶の負傷者11人、うち3人が死亡とされているが、氏名は判明していない。町民の証言によれば、2名の遺体が覚王寺に運ばれたという。また、重傷者を翌日に函館に運んだが、助からなかったという話も残っている。


 『戦時船舶史』中で該当する船がないか探したところ、日本製鉄の鷹丸(887総トン)が臼尻付近で被弾・沈没し、たしかに3人死亡とあった。また、鷹丸の乗船者を『戦没船員名簿』の中で探すと、2人が見つかった。もう1人の名前は見当たらなかった。


 『北海道空襲』などでは、南茅部の犠牲者数を6人としているが、銭亀沢村沖で空襲を受けた俊丸(第12俊若丸?)の死者を含めているためと思われる。本調査では、函館での犠牲者とした。



 

【南茅部空襲の犠牲者】

 氏名判明・・・民間人0、船員3、軍人0
 氏名不明・・・民間人0、船員1、軍人0


【主要参考文献】

・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・戦没船員の碑建立会『戦没船員名簿』(1972年)
・駒宮真七郎『戦時船舶史』(1991年)
・南茅部町史編集室『南茅部町史 下巻』(南茅部町,1987年)
・荒木恵吾『噴火湾空襲』(1989年)

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