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2011年9月

2011年9月30日 (金)

その他海上

 その他、北海道空襲により海上で亡くなった人が、本調査により49人見つかった。


【その他の海上の犠牲者】
 氏名判明・・・民間0、船員8、軍人66
 氏名不明・・・民間0、船員0、軍人 0


【主要参考文献】
・海防艦顕彰会『海防艦戦記』(1982年)
・松本尚志「1945年7月14-15日北海道・東北空襲による被害艦船一覧 (1)艦船及び汽船の部 (2)機帆船の部」,『トカプチ』,第19号,2008年
・駒宮真七郎『戦時船舶史』(1991年)
・戦没船員の碑建立会『戦没船員名簿』(1972年)
・第二復員局残務処理部『日本艦艇及船舶被害一覧表(自1945年1月至1945年8月)』(1949年)
・JACAR(アジア歴史資料センター),Ref.C08030456200,厚岸防備隊『昭和二十年六月分 厚岸防備隊戦時日誌』,防衛省防衛研究所所蔵

2011年9月29日 (木)

津軽海峡

 青函連絡船以外にも多くの船が14日・15日に津軽海峡で攻撃を受け、たくさんの人が亡くなった。この事実は、これまでの北海道空襲に関する調査ではほとんど注目されてこなかった。銃後の民間人が命を奪われたことも許されないことではあるが、海上の船員や兵士もほとんど戦う手段もないまま殺されていったことを考えると、空襲の犠牲者として名を記録されるべきであろう。


(a)第219号海防艦
 『戸井町史』に「十五日、瀬田来沖を航行中の海防艦が艦載機に襲われ忽ち撃沈された」とある。このとき海防艦を襲ったグラマン機の一部が戸井町を攻撃したことにより、町民にも犠牲者が出た。しかし、この海防艦の名称も犠牲者の数も書かれていない。「函館空襲を記録する会」の浅利政俊氏がこれに疑問をもって調査を行い、2008(平成20)年に『北海道の船団護衛に尽力した第219号海防艦』という報告を出している。それによると、空襲を受けたのは第219号海防艦(810排水トン)であり、沈没した地点は北緯41度48分、東経140度41分であった。空襲により犠牲となった194名の海軍兵の名前は『海防艦戦記』に収録されている。


(b)第24号掃海艇
 第24号掃海艇(648排水トン)は14日に室蘭、15日に津軽海峡で空襲を受けた。その模様を記した『第52掃海隊第24号掃海艇戦闘詳報』がアジア歴史資料センターで公開されている(Ref.C08030214300)。
 戦闘詳報によれば、14日は午前と午後の二回にわたって室蘭港でグラマン機の攻撃を受けたが、被害はなかった 。
 15日は、敵機の日本海及び陸奥湾への侵入を阻止せよとの命令を受けて、津軽海峡西口に向かった。09時00分頃、汐首岬の沖合でグラマン機の来襲を受け、09時57分に沈没した。負傷者を乗せたカッター・内火艇は繰り返し機銃掃射され、カッター2隻は破壊・沈没した。漂流中の兵員に対しても超低空で機銃掃射が繰り返された。板きれやムシロを頭上に載せていた人だけがグラマン機に発見されず掃射を受けなかった。今回の調査では、このとき亡くなった153人の犠牲者名が判明した。



(c)豊国丸
 特設運送船、豊国丸(1274総トン)は14日に大間崎沖でグラマン機の攻撃を受け沈没し135名が亡くなった。空襲の模様は『日本海軍特務艦豊国丸』や『嗚呼豊国丸』にまとめられている。
 それによれば、豊国丸は14日に八戸港を出港し北上していた。04時30分頃からグラマン機の攻撃を受け始め、津軽海峡に入った11時頃までに戦闘員の大部分が戦死または負傷した。14時頃に大間崎近傍で爆弾3発を被弾し、14時36分に沈没した。
 沈没時に約60名が海上に出たが、多くは波間に沈んだり、潮流に流されて行方不明となった。助かったのは青森県大畑町に流れ着いた12名だけだった。
犠牲者135名の氏名は『嗚呼豊国丸』『豊国丸遺族会と揺れ動く墓標』に収録されている。また、青森県大間崎に豊国丸戦死者忠霊碑が建てられている。


(d)永保丸
 永保丸(北海船舶、741総トン)は14日、汐首岬沖合を航行中に空爆され沈没した。『戦時船舶史』によれば、26人の船員が亡くなっている。『戦没船員名簿』を確認したところ、たしかに26人の名前が見つかった。函館普通海員養成所出身の若者が多い。


(e)朝洋丸
 特設掃海艇、朝洋丸(80総トン)は、13日に函館を出発したあと消息不明となり、空襲により沈没したものだと推測されている(『大湊防備隊戦闘詳報第九号(七月十四、五日敵機動部隊来襲ニ依ル対空戦闘)』)。乗船員全員もしくは大半が亡くなったのではないかと思われるが、死者数について書いた資料が見当たらない。ただ、艇長ら2名が亡くなったことは突き止められた。



(f)その他の船舶
 その他、以下の船舶が津軽海峡で空襲を受け、死者が出たことが分かった。
 ・幸丸(東邦水産、194総トン)・・・13人
 ・阿波丸(1650総トン)・・・5人
 ・第九多聞丸(三井機船、105総トン)・・・1人
 ・第43忠洋丸(栗林機船、110総トン)・・・1人
 ・神悦丸(松村勇、169総トン)・・・1人
 ・敷設特務艇、黒崎(420排水トン)・・・2人
 ・特設掃海艇、第二朝洋丸(80総トン)・・・13人
 ・特設監視艇、第二号明治丸(80総トン)・・・6人+α
 ・特設掃海艇、第三京仁丸(434総トン)・・・
 ・第18榮徳丸(171総トン)・・・2人
 ・平野丸(三井船舶、1232総トン)・・・5人
 ・興隆丸(坂本五郎兵衛、98総トン)・・・3人



【津軽海峡空襲の犠牲者】
 氏名判明・・・民間0、船員60、軍人494
 氏名不明・・・民間0、船員 0、軍人 16


【主要参考文献】
・平井秀松『鳴呼豊国丸』(旧日本海軍特務艦豊国丸慰霊会,1975年)
・高津市三『豊国丸遺族会と揺れ動く墓標』(旧日本海軍特務艦豊国丸遺族会,1998年)
・駒宮真七郎『戦時船舶史』(1991年)
・戦没船員の碑建立会『戦没船員名簿』(1972年)
・野間亘『商船が語る太平洋戦争-商船三井戦時船史』(2004年,再版)
・海防艦顕彰会『海防艦戦記』(1982年)
・松本尚志「1945年7月14-15日北海道・東北空襲による被害艦船一覧 (1)艦船及び汽船の部 (2)機帆船の部」,『トカプチ』,第19号,2008年
・JACAR(アジア歴史資料センター),Ref.C08030453700,大湊防備隊『昭和二十年七月三十日 大湊防備隊戦闘詳報第九号(七月十四、五日敵機動部隊来襲ニ依ル対空戦闘)』(1945年),防衛省防衛研究所所蔵
・JACAR(アジア歴史資料センター),Ref.C08030214300,『第52掃海隊第24号掃海艇戦闘詳報』,防衛省防衛研究所所蔵

2011年9月28日 (水)

青函連絡船

 本州と北海道を結ぶ大動脈であった青函連絡船は14日と15日の空襲で全滅した。


 14日は、翔鳳丸が青森港内、飛鸞丸・第二青函丸が青森港外で沈没した。松前丸は七重浜で座礁し炎上した。津軽丸は狐越岬沖で沈没した。第三青函丸は矢越岬沖で、第四青函丸は葛登支岬沖で沈没した。第六青函丸は野内沖で座礁した。第十青函丸は函館港外で沈没した。第七青函丸・第八青函丸は函館港内で損傷を受けた。


 15日は、第一青函丸が三厩港灯台の東1キロ付近で沈没した。


 この空襲により、多くの乗員・乗客が亡くなった。しかし、死亡者数は資料によってばらばらとなっている。例えば、『青函連絡船史』(青函船舶鉄道管理局,1970年)では乗員346人・乗客52人・船舶警戒隊員27人、合計425人が亡くなったとされる。『白い航跡 青函連絡船戦災史』では430人が亡くなったとされる。他にも、412人(『ハマナスのかげで』)、429人(坂本幸四郎『青函連絡船』)、477人(松本尚志(『証言帯広空襲 第四集』))という説があり、いったいどれが正しいのか分からない。


 青函連絡船の犠牲者については、複数の名簿がある。本調査では、『白い航跡』『戦没船員名簿』『青函連絡船殉難者名簿』および函館市内の慰霊碑に刻まれた「青函連絡船殉職者氏名」という4種の名簿に当たった。



 乗客の犠牲が出たのは津軽丸のみであった。『昭和二十年青函連絡船戦災記録』に収録されている「津軽丸戦災ニヨル遭難旅客概況」によれば、乗客の行方不明者は52名で、その他に1人の陸軍兵が海上で乗り込んでいる。『白い航跡』ではこのうち6人の氏名が明らかにされているが、大半の死者については氏名不明のままであった。今回の調査では、各地の市町村史などを確認し、4名の乗客名を見つけた。


 『白い航跡』の名簿によれば、第四青函丸と第五青函丸以外の船には船舶警戒隊員が乗り組んでいた。死者・行方不明者を数えると、従来言われてきた27名ではなく28名の犠牲が出ている。


 明らかになった犠牲者を数えたところ、乗員349人、乗客53人(途中乗船1人含む)、船舶警戒隊員28人、合計430人となった。船舶別では、翔鳳丸48人、飛鸞丸32人、津軽丸134人、松前丸28人、第二青函丸26人、第三青函丸71人、第四青函丸54人、第六青函丸37人である。



【青函連絡船空襲の犠牲者】
 氏名判明・・・民間 7、船員349、軍人30
 氏名不明・・・民間44、船員  0、軍人 0


【主要参考文献】
・青函連絡船戦災史編集委員会『白い航跡 青函連絡船戦災史』(青森空襲を記録する会,1995年)
・荒木善之『昭和二十年青函連絡船戦災記録』(1965年)
・昭和20年青函連絡船遺族会『青函連絡船殉難者名簿』(1966年)
・坂本幸四郎『わが青春の青函連絡船』(光人社,1989年)
・昭和20年青函連絡船遺族会『札幌鉄道教習所函館船員養成所設置概要と第四期生遭難に関する事後処理記録』(1984年)
・葛西常利『国鉄青函連絡船大沼第四期生空襲殉難の記』(1983年)

2011年9月27日 (火)

中標津町

 中標津町は14日に空襲を受けた。『中標津町史』によると兵士1人・徴用2人が亡くなったとされる。一方、旧日本陸軍の資料「北部軍防空情報」 によれば、計根別の陸軍飛行場で兵士1名が戦死、中標津の海軍基地の滑走路への攻撃で3人が戦死している。

 『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』により1人、本調査で1人の氏名が判明している。


【中標津空襲の犠牲者】
 氏名判明・・・民間1、船員0、軍人1
 氏名不明・・・民間2、船員0、軍人0


【主要参考文献】
・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・中標津町『中標津町史』(1981年)

2011年9月26日 (月)

別海町

 別海町は14日に空襲を受けた。中標津発厚床行き客貨車が春別駅を出て3、4キロの地点で攻撃され、機関士が死亡した。


【別海空襲の犠牲者】
 氏名判明・・・民間1、船員0、軍人0
 氏名不明・・・民間0、船員0、軍人0


【主要参考文献】
・釧路鉄道管理局『釧路鉄道管理局史』(1972年)
・根室空襲研究会『根室空襲』(1993年)
・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)

2011年9月25日 (日)

根室市

 根室市は14日・15日の両日に空襲を受け、多くの市民が犠牲となった。この空襲については、根室空襲研究会が精力的な調査を行っている。その成果である『根室空襲』には、年齢・住所・死因・被災場所などを記した詳細な犠牲者名簿が収録されている。


 根室空襲研究会の調査では、根室関係の死亡者が210人、船舶関係の軍属・民間人の死亡者・行方不明者が106人確認されている。この他に、軍徴傭船の乗組員の死亡者・行方不明者がいるので、根室空襲全体の犠牲者は400人を超えると同研究会は推定している。


 根室空襲研究会作成の犠牲者名簿を確認したところ、根室関係の死亡者210人のうち、根室市内の陸上で亡くなったのは196人であった。そのうちの1人は氏名不明である。また、名簿には名前がないものの、『根室空襲』に収録された証言から1人の氏名が本調査で判明した。


 根室関係の死亡者210人のうち、海上で亡くなったのは14人である。さらにこのうち4人は小舟に乗っており、残りの10人は浦河丸の乗客であった。本調査では、小舟に乗っていた1人の名前が『根室空襲』の名簿にないと分かったので、新しく記載した。


 根室空襲では浦河丸(東邦水産、343総トン)と東裕丸(飯野海運、1256総トン)という2隻の大きな船舶が沈没した。


 浦河丸は15日に攻撃され、根室港弁天島沖で沈没した。択捉漁業株式会社の社員2名、労務者88名、その家族2名、一般乗客10名、乗組員6名、船舶警戒隊員1名、合計109名が死亡または行方不明となった。一部の乗組員は『根室空襲』で不明とされていたが、『戦没船員名簿』などをあたることにより、氏名が判明した。


 東裕丸は14日・15日と連日の攻撃を受け、根室春国岱沖5キロで沈没した。『戦時船舶史』によれば、船員23名、陸軍船砲隊23名が亡くなったとされる。一方、『根室空襲』によると、地元では79名死亡説が伝わってきたという。『根室空襲』には死亡した26名の船員、6名の船砲隊員の名前が収録されている。本調査で、『戦没船員名簿』をあたったところ、さらに1名の船員の名前を確認できた。また、各地の戦没者名簿を確認した結果、根室港外で亡くなったという船舶機関砲兵第2連隊所属の陸軍兵2人、暁6179部隊所属の陸軍兵2人が見つかった。部隊名から東裕丸に乗船していた可能性が高いと思われる。以上から、船員27名・船砲隊員10名の氏名が明らかとなった 。


 根室では他にも犠牲となった人がいた。『戦没船員名簿』や各地の戦没者名簿から船員や軍人・軍属の名前24人を拾い出すことが出来た。『根室空襲』によれば、米軍が上空から撮影した根室港の写真には幾つもの船影が写っており、相当数の船舶が入港していたと思われるという。これらの船舶に乗っていた人も含まれるだろう。また、陸上でやられた陸軍兵もいたと思われる。


【根室空襲の犠牲者】
 氏名判明・・・民間305、船員45、軍人23
 氏名不明・・・民間  1、船員 0、軍人18


【主要参考文献】
・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・根室空襲研究会『根室空襲』(1993年)
・戦没船員の碑建立会『戦没船員名簿』(1972年)
・駒宮真七郎『戦時船舶史』(1991年)

2011年9月24日 (土)

標茶町

 標茶町は15日に空襲を受けた。列車が攻撃され、機関士と乗客が亡くなっている。乗客の氏名は不明のままである。


【標茶空襲の犠牲者】
 氏名判明・・・民間1、船員0、軍人0
 氏名不明・・・民間1、船員0、軍人0


【主要参考文献】
・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・先生のつづる戦争の記録刊行会『ハマナスのかげで-1945年・北海道空襲の記録』(北書房,1979年)
・標茶消防百年記念誌編纂委員会『纒-標茶消防百年史』(標茶の消防創設百年記念事業実行委員会,1992年)

2011年9月22日 (木)

阿寒町

 阿寒町では14日に空襲があった。『阿寒町百年史』では雄別炭鉱鉄道の列車が阿寒・桜田駅間で攻撃を受け、乗客5人が亡くなったと書かれている。氏名は明らかにされていない。

 しかし、『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』の調査で、3人の名前が判明している。また、2003年に、帯広柏葉高校新聞部の調査により、1人の名前が判明している。


 最後の一人の名前はこれまで判明していなかったが、『改訂版 釧路空襲』のなかに犠牲者の氏名を発見した。木材商の方の証言中に、帳場さんが雄別炭鉱鉄道の列車に乗車中、桜田駅近くで機銃を受け、向かい合わせに座っていた子どもの前で死亡した、とある。間違いなく阿寒空襲の犠牲者である。


【阿寒空襲の犠牲者】
 氏名判明・・・民間5、船員0、軍人0
 氏名不明・・・民間0、船員0、軍人0


【主要参考文献】
・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・菊地慶一『語りつぐ北海道空襲』(北海道新聞社,2007年)
・釧路戦災記録会『改訂版 釧路空襲』(1988年)
・『帯広柏葉高新聞』2003年7月24日付,「幻の空襲犠牲者」

2011年9月21日 (水)

浜中町

 浜中町は15日に空襲を受けた。『浜中町史』によれば、無線方位信号所職員と地元の女性が亡くなっている。


【浜中空襲の犠牲者】
 氏名判明・・・民間2、船員0、軍人0
 氏名不明・・・民間0、船員0、軍人0


【主要参考文献】
・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・浜中町役場『浜中町史』(1975年)

2011年9月20日 (火)

厚岸町

 厚岸町は14日・15日の両日に空襲を受けた。『厚岸町史(上巻)』によると、死者が出たのは14日のみで5人が亡くなっている。このうち、氏名が明らかになっているのは漁夫2人と青年学校生1人のみである。また、氏名不明ながらも行商人1人が亡くなったとされる。あと1人については『厚岸町史(上巻)』には死亡状況や所属・身分など一切書かれていない。 



 一方、『広報あっけし』第578号(1995年8月)の特集「語り継ごう厚岸の戦争体験」には、上尾幌駅構内の信号機近くに落とされた爆弾により陸軍の兵隊が死亡したという証言が掲載されている。この人が5人目にあたるのかもしれない。


 今回の調査で、海軍兵が14日に厚岸町大字真竜町で死亡したとあるのを発見した。したがって、厚岸空襲の犠牲者は1人増えて、6人になると判断した。



【厚岸空襲の犠牲者】
 氏名判明・・・民間3、船員0、軍人1
 氏名不明・・・民間1、船員0、軍人1


【主要参考文献】
・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・厚岸町史編さん委員会『厚岸町史(上巻)』(厚岸町,1975年)
・厚岸町『広報あっけし』第578号,1995年8月

2011年9月19日 (月)

釧路町

 釧路町は14日に空襲を受け、別保炭鉱の炭鉱住宅で従業員一家がやられた。この一家の姓と死んだ人数は資料・証言によってばらつきがあり、3人か4人かはっきりしない。

 同じ14日に他の犠牲者もあった。『釧路町史』によれば、旧昆布森村で子どもが流れ弾に当たって死亡した。また、『鉄路風雲』によると、国鉄職員3名が砂利散布中に空襲を受け亡くなっている。



【釧路町空襲の犠牲者】
 氏名判明・・・民間4、船員0、軍人0
 氏名不明・・・民間3、船員0、軍人0


【主要参考文献】
・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・先生のつづる戦争の記録刊行会『ハマナスのかげで-1945年・北海道空襲の記録』(北書房,1979年)
・釧路町史編集委員会『釧路町史』(釧路町,1990)
・釧路戦災記録会『改訂版 釧路空襲』(1988年)
・岩崎正『鉄路風雲-道南鉄道空襲記録』(1979年)
・釧路鉄道管理局『釧路鉄道管理局史』(1972年)

2011年9月18日 (日)

釧路市

 釧路市は14日・15日の両日に空襲を受け、市民に多くの犠牲が出た。


 『改訂版 釧路空襲』によると、死者の数は資料によってばらつきがある。例えば、「戦災復興誌」(1957年)では死者183人、「昭和20年釧路市事務報告書」では戦災殉死者192人ないし194人とされる。『改訂版 釧路空襲』ではどの数字が正しいか断定は避けているが、総合的に見た場合192人が妥当であるとしている。「戦災復興誌」では、遺骨204体を家族・縁故者に引き渡したとされる。192人よりも12人多い。『改訂版 釧路空襲』によると、空襲中にショックで死亡した人なども含まれるためだという。爆撃や銃撃により亡くなったわけではないが、この人たちも空襲犠牲者に含めるべきであろうと考え、本調査では204人を採用した。


 『改訂版 釧路空襲』には民間人156人および船員2人、合計158人の死亡者名簿が収録されている。確認したところ、他市町村への空襲で死亡した釧路市民が3人含まれていたため、この方たちについては本名簿では釧路市空襲の犠牲者とはしなかった。



 今回、『改訂版 釧路空襲』の収録資料や生存者の証言などを確認して、死亡者名簿に収録されていない13人の犠牲者名を拾い出すことが出来た。その他にも、情報提供を受け、釧路市空襲による民間人犠牲者167人と船員犠牲者2人の氏名が判明した。



 釧路市では軍の犠牲者も出ている。「昭和20年釧路市事務報告書」によると海軍関係の死者が23人あったとされる。うち20人は、海軍特設監視艇の第二玉園丸(316総トン)が釧路知人岸壁で攻撃を受けた際に亡くなり、あとの3人は別の船舶の乗船者だった。
海軍兵の氏名はこれまで一人も分かっていなかったが、今回の調査で第二玉園丸機関長など3人の氏名が判明した。陸軍兵についても2人の氏名が判明した。



【釧路市空襲の犠牲者】
 氏名判明・・・民間167、船員2、軍人 5
 氏名不明・・・民間 35、船員0、軍人20


【主要参考文献】
・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・釧路戦災記録会『改訂版 釧路空襲』(1988年)
・加藤忠史『子どもたちのための空しゅう60 あの日のことを伝えたい-釧路・根室・十勝・室蘭・その他-』(2005年)
・加藤忠史『祖父母が孫たちに語る釧路空襲 もう戦争はいやです 第2集』(2004年)
・釧路市立北中学校社会科部会『釧路の空襲 第1集~第2集』(1971年)
・由利義孝『おはなし くしろ物語』(北海道教職員組合釧路市支部社会科サークル,1992年)
・釧路鉄道管理局『釧路鉄道管理局史』(1972年)
・中村作蔵『あゆみ-釧路機関区五十五周年記念』(1956年)

2011年9月17日 (土)

白糠町

 白糠町には14日に空襲があった。『叢書しらぬか第一巻 空襲前後』によると、庶路市街で2人、白糠市街で5人の死者が出ており、全員の氏名が判明している。


 また、海軍特設監視艇、白鳳丸(332総トン)も攻撃を受け、庶路恋問海岸に乗り上げ大破した。この時に死傷者が多数出て、町内の妙雲寺で葬儀が行われたが、その人数も氏名も不明のままとなってきた。


 今回、『戦没船員名簿』や各地の戦没者名簿を確認したところ、白鳳丸に乗船し戦没したと明記されている人が3人見つかった。また、乗船名は不明だが白糠沖や庶路沖で戦死したとされる海軍兵が7人見つかった。松本尚志氏のまとめによる「1945年7月14-15日北海道・東北空襲による被害艦船一覧」を見ると、白糠付近で空襲を受けた船舶は白鳳丸以外にはない。したがって、これら7人の人たちも白鳳丸に乗船し、空襲にやられたものだと判断した。


 『大湊防備隊戦闘詳報第九号(七月十四、五日敵機動部隊来襲ニ依ル対空戦闘)』に、白鳳丸が受けた攻撃の模様について書かれている。機密書類を搬出したとあるものの、犠牲者の数については書かれていない。結局、今回の調査では死者数は明らかには出来なかった。ただ、戦没者名簿はごく一部の地域でしか発行されていないことから考えると、9人以外にも亡くなった人がいるのは確実である。



【白糠空襲の犠牲者】
 氏名判明・・・民間7、船員2、軍人9
 氏名不明・・・民間0、船員0、軍人0


【主要参考文献】
・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・白糠町史編集委員会『叢書しらぬか第一巻 空襲前後』(白糠町,1982年)
・松本尚志「1945年7月14-15日北海道・東北空襲による被害艦船一覧 (1)艦船及び汽船の部 (2)機帆船の部」,『トカプチ』,第19号,2008年
・JACAR(アジア歴史資料センター),Ref.C08030453700,大湊防備隊『昭和二十年七月三十日 大湊防備隊戦闘詳報第九号(七月十四、五日敵機動部隊来襲ニ依ル対空戦闘)』(1945年),防衛省防衛研究所所蔵
・戦没船員の碑建立会『戦没船員名簿』(1972年)

2011年9月16日 (金)

音別町

 音別町は14日・15日の両日に空襲を受けた。

 『音別町史 下巻』によると、14日は尺別駅や列車が襲われ、9人の犠牲者が出ているが、うち3人の名前が不明のままとなっている。

 また、15日にも空襲があったが、『音別町史 下巻』では被害がなかったとされている。本調査では、15日に尺別地区で亡くなった方を1人発見した。


【音別空襲の犠牲者】
 氏名判明・・・民間7、船員0、軍人0
 氏名不明・・・民間2、船員0、軍人1


【主要参考文献】
・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・音別町史編さん委員会『音別町史 下巻』(音別町,2006年)

2011年9月15日 (木)

常呂町

 常呂町は15日に空襲を受け、漁船員1人が死亡している。


【常呂空襲の犠牲者】
 氏名判明・・・民間1、船員0、軍人0
 氏名不明・・・民間0、船員0、軍人0


【主要参考文献】
・菊地慶一『語りつぐ北海道空襲』(北海道新聞社,2007年)

2011年9月14日 (水)

小清水町

 小清水町は15日に空襲を受けた。古樋駅への空襲により駅助役、列車への空襲により乗客の幼女が亡くなった。2人の名前は、網走空襲の犠牲者とともに「網走空襲の碑」に刻まれている。


【小清水空襲の犠牲者】
 氏名判明・・・民間2、船員0、軍人0
 氏名不明・・・民間0、船員0、軍人0


【主要参考文献】
・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・菊地慶一『紅の海-網走空襲犠牲者の記録』(網走歴史の会,1977年)
・網走空襲の記録編集委員会『網走空襲の記録』(1990年)

2011年9月13日 (火)

網走市

 網走市は15日に空襲を受け、オホーツク海沿岸を守る防衛隊の少年兵たち6人、監視哨員1人、漁船員5人が亡くなっている。網走空襲については『紅の海-網走空襲犠牲者の記録』や『網走空襲の記録』に詳しい。網走市内には「網走空襲の碑」が建てられ、犠牲者の氏名が刻まれている。


【網走空襲の犠牲者】
 氏名判明・・・民間6、船員0、軍人6
 氏名不明・・・民間0、船員0、軍人0


【主要参考文献】
・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・菊地慶一『紅の海-網走空襲犠牲者の記録』(網走歴史の会,1977年)
・網走空襲の記録編集委員会『網走空襲の記録』(1990年)

2011年9月12日 (月)

本別町

 本別町には15日に空襲があった。軍事的に重要な地点ではないにもかかわらず、死者40人、全焼家屋299戸という大きな被害を受けた。『記録 本別空襲』に40人の氏名とその最期が詳しく記されている。

 本別がここまでの被害を被った理由を、松本尚志氏が米軍資料を解析することにより明らかにしている 。指定目標だった帯広への攻撃を悪天候により断念した攻撃隊が、雲の切れ目に発見した本別市街を臨機目標として攻撃したというのが真相であった。


【本別空襲の犠牲者】
 氏名判明・・・民間40、船員0、軍人0
 氏名不明・・・民間 0、船員0、軍人0


【主要参考文献】
・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・本別町図書館『記録 本別空襲』(1983年)
・北海道歴史教育者協議会十勝支部『十勝歴史の窓』,第47号(本別空襲特集号),1983年
・松本尚志「十勝の空襲を追って3 本別は何故空襲されたのか アメリカ海軍文書を分析する」,『トカプチ』,第3号,1990年

2011年9月11日 (日)

音更町

 音更町では14日と15日の両日に空襲があり、15日に農業会の職員2名と農家の娘さん1名が亡くなった。松本尚志氏によって音更空襲の模様は詳しく調査・記録されている 。


【音更空襲の犠牲者】
 氏名判明・・・民間3、船員0、軍人0
 氏名不明・・・民間0、船員0、軍人0


【主要参考文献】
・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・松本尚志「十勝の空襲を追って4 音更空襲その一 九一部隊の反撃」,『トカプチ』,第4号,1990年
・松本尚志「十勝の空襲を追って5 音更空襲その二 15日、音更市街爆撃を受け多大の損害を被る」,『トカプチ』,第5号,1991年
・松本尚志「十勝の空襲を追って6 音更空襲その三 補遺」,『トカプチ』,第6号,1992年

2011年9月10日 (土)

池田町

 池田町では14日に空襲があった。池田機関区で蒸気機関車が攻撃され、乗務員2名が亡くなった。また、線路そばの防空壕で2人の民間人が機銃掃射を受けて死亡した。


【池田空襲の犠牲者】
 氏名判明・・・民間4、船員0、軍人0
 氏名不明・・・民間0、船員0、軍人0


【主要参考文献】
・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・池田町『池田町 戦火の追憶』(1995年)

2011年9月 9日 (金)

帯広市

 帯広市は14日・15日の両日にわたって空襲を受けた。14日は死者は出なかったが、15日には5人の死者が出た。このうち3人は16歳から1歳までの兄弟であった。『証言・帯広空襲』に全員の氏名が掲載されている。

 今回、もう1人の犠牲者が見逃されていることに気が付いた。『北海道空襲』の「音更空襲」の項に、音更飛行場の警備隊長の証言が掲載されている。それによれば、空襲時に帯広の官舎にいた妻が退避する際、長女が窒息状態となったという。この人を入れて、帯広空襲の犠牲者は6名とした。


【帯広空襲の犠牲者】
 氏名判明・・・民間5、船員0、軍人1
 氏名不明・・・民間0、船員0、軍人0


【主要参考文献】
・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・帯広空襲を語る会『証言 帯広空襲』(1995年)
・帯広空襲を語る会『証言 帯広空襲 第四集』(2006年)

2011年9月 8日 (木)

豊頃町

 豊頃町は14日に空襲を受けた。地元の2人が犠牲となっている。『豊頃町遺族誌』『北海道空襲』に2人の氏名と空襲時の状況が記述されている。


【豊頃空襲の犠牲者】
 氏名判明・・・民間2、船員0、軍人0
 氏名不明・・・民間0、船員0、軍人0


【主要参考文献】
・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・種川一『ああわれふるさとにまみえず-豊頃町遺族誌』(1977年)

2011年9月 7日 (水)

浦幌町

 浦幌町は15日に空襲を受け、民間人3人が亡くなった。松本尚志氏の調査により全員の氏名が判明している。


【浦幌空襲の犠牲者】
 氏名判明・・・民間3、船員0、軍人0
 氏名不明・・・民間0、船員0、軍人0


【主要参考文献】
・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・松本尚志「十勝の空襲を追って1 浦幌町厚内の空襲」,『トカプチ』,創刊号,1989年

2011年9月 6日 (火)

大樹町

 大樹町には15日に空襲があった。2人の民間人が亡くなっている。


【大樹空襲の犠牲者】
 氏名判明・・・民間2、船員0、軍人0
 氏名不明・・・民間0、船員0、軍人0


【主要参考文献】
・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・松本尚志「十勝の空襲を追って2 『疎開者某』とされたのは誰か(大樹の空襲)」,『トカプチ』,第2号,1989年

2011年9月 5日 (月)

広尾町

 広尾町には15日に空襲があった。国民学校の生徒が機銃弾を受けて死亡している。


【広尾空襲の犠牲者】
 氏名判明・・・民間1、船員0、軍人0
 氏名不明・・・民間0、船員0、軍人0


【主要参考文献】
・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・広尾防空監視哨抄史編纂委員会『広尾防空監視哨抄史』(1985年)

2011年9月 4日 (日)

旭川市

 旭川市は15日に空襲を受けた。

 旭川空襲では1人の兵士がやられたという証言のみが長らくあった。しかし、1人の民間人が亡くなっていたことが、1995(平成7)年に判明した。その他にもう1名死者がいたという証言もあるが、氏名は不明である。


【旭川空襲の犠牲者】
 氏名判明・・・民間1、船員0、軍人1
 氏名不明・・・民間1、船員0、軍人0


【主要参考文献】
・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・菊地慶一『語りつぐ北海道空襲』(北海道新聞社,2007年)
・喜多健二「旭川空襲の証言」,『旭川研究 昔と今』,第13号,1998年

2011年9月 1日 (木)

富良野市

 富良野市には15日に空襲があり、病院や富良野駅が攻撃を受けた。『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』によると4人の死者が判明している。この人たちだけが富良野空襲での犠牲者だと長い間考えられてきた。

 しかし『富良野駅60年のあゆみ』に、国鉄職員が空襲を受け亡くなったと書かれていることから、実は5人だということが判明した。



【富良野空襲の犠牲者】
 氏名判明・・・民間5、船員0、軍人0
 氏名不明・・・民間0、船員0、軍人0


【主要参考文献】
・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・富良野市郷土研究会『富良野こぼれ話』(1979年)
・富良野市郷土研究会『続富良野こぼれ話』(1984年)
・富良野駅『富良野駅60年の歩み』(1960年)
・北海道空襲を記録する会『悲しみの夏-語りつぐ北海道空襲補遺Ⅱ』(2011年)

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