概要

2011年7月24日 (日)

本調査

 名簿作成にあたっては、名前だけではなく、どんな人がどのようにして殺されたのか記録するべきではないかと考えた。そこで、氏名の他にも、年齢・性別・死亡日・職業・死因などを出来る限り調べることにした。

 調査は、道内各地で出された空襲関連の書籍や市町村史といった基本的な文献から名前を拾い出すことより始めた。さらに、遺族会や平和団体・郷土史研究会の出した出版物、学校史・社史・文芸誌・新聞記事・自治体広報などにも目を通した。様々な文献に当たることにより、これまで見落とされてきた人たちの発見につながった。また、ある資料では名前しか記されていなくとも、他の資料によって年齢や職業、空襲時の様子、出身地などが判明することも多かった。

 空襲というと、民間人に目が向きがちである。そのためか、海上で犠牲となった船員や軍人については青函連絡船を除くと、これまであまり注目されてこなかった。しかし、戦う手段も持ち合わせず海上で一方的に殺された船員、また武器を持っていたといえども、機銃掃射を繰り返し爆弾を落としてくる艦載機に対してほとんど勝ち目もなく殺されていった軍人も空襲の犠牲者として記録されるべきだと考え、名簿に収録した。

 名簿は、個々人について、空襲にあった場所、日付、年齢、性別、所属、職業、空襲を受けたときの様子、死因を記載し、出典も明記している。

 調査の結果、2626人の名前が明らかになった。内訳は民間人1134人(男性630人・女性481人・性別不明23人)、船員603人、軍人889人である。また、氏名不明者も入れると、少なくとも2908人が北海道空襲により亡くなったと分かった。

2011年7月23日 (土)

これまでの調査

 1945(昭和20)年からの25年間は空襲や戦災を記録しようという風潮は全国的にほとんど見られなかった。しかし、1970(昭和45)年に「東京空襲を記録する会」が誕生したことがきっかけとなって、空襲を記録しようという運動が全国各地で起こり始めた 。

 北海道では、1971(昭和46)年に他地方に先駆けて釧路戦災記録会が発足、1972(昭和47)年から1974(昭和49)年にかけて、全3巻の『釧路空襲』を発刊した。

 それに続いて、その他の市町村においても、各々の空襲が調査・記録されるようになった。網走市・本別町・函館市・根室市・白糠町・石狩市・十勝地方・噴火湾・国鉄・青函連絡船などへの空襲が、各地の団体・個人によって調査され、書籍となっている。

 空襲だけを扱った出版物の形はとらなくとも、各市町村史の中には空襲に関する記述に多くを割いているところもある。各地の郷土研究誌などにも、空襲に関する論文が多数発表されている。

 全道の空襲被害を網羅しようとする試みも行われてきた。初めてそれに挑戦したのは『ハマナスのかげで-1945年・北海道空襲の記録』(1979年)である。当時判明していた29市町村(平成の大合併前)と青函連絡船での犠牲者数が示されており、それぞれ1183人、412人で、合計すると1595人となる。

 1980(昭和55)年に、全国の空襲被害をまとめた『日本の空襲』(全10巻)が出版された。第1巻では北海道を取り上げており、北海道空襲の犠牲者数は906人とされている(青函連絡船は含まず)。

 1995(平成7)年、菊地慶一著『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』が出版された。この著作によって初めて北海道空襲の全体像が明らかにされた。それによると、檜山地方・宗谷地方を除く全道各地、すなわち78市町村に空襲があり、そのうち56市町村で死者1496人が出たことが判明した。青函連絡船の犠牲者数429人を足して、1925人が北海道空襲により亡くなったとしている。

 その後、2007(平成19)年には改訂版となる『語りつぐ北海道空襲』を発刊、犠牲者も数えなおし、57市町村と青函連絡船で犠牲者数1958人という数字を出している。

 一方、松本尚志氏が2006(平成18)年に発表した報告(『証言 帯広空襲 第四集』)を見ると、50市町村で犠牲者1338人が出たとしており、青函連絡船の犠牲者477人とあわせると全体では1815人となる 。

 しかし、これらの全道的な調査においても、北海道空襲全体の犠牲者を名簿にまとめるまでには至っていなかった。したがって、2000人近い数字のうち、何人の名前が分かっているのかという基本的なことすら不明のままになっていた。

2011年7月22日 (金)

被害の概要

 檜山地方と宗谷地方を除く各地に空襲が繰り広げられた。

 地方の一農村に過ぎなかった本別は各所に爆弾が投下され、機銃掃射が加えられ、40人が死亡した。全人口11962人のうち1915人が罹災し、全2190戸のうち家屋全焼は299戸、大破倒壊は113戸におよんだ 。伊達では、空襲してはならないはずの赤十字病院に対して攻撃が加えられ、4人が亡くなった 。厚田では民家に爆弾が投下され、子どもたちが犠牲となった 。石狩や浦河など多くの市町村でも民家が攻撃された。飛行機を見て手を振っていた子どもが機銃掃射を受けたという話も複数の場所で伝わっている 。釧路市や根室では市街地全体に対して大規模な攻撃が繰り広げられ、多くの人たちが亡くなった。津軽海峡では、海面を漂流していた船員や兵士に容赦なく機銃掃射が加えられた 。

 本来は攻撃目標が指定されていたのだが、実際には、目に付いたありとあらゆる人やものに対して米軍は無差別攻撃を行ったのである。

 また、空襲の他に、15日に戦艦アイオワ・ミズーリ・ウイスコンシンと軽巡2隻・駆逐艦9隻からなる第34.8.2任務隊が室蘭へ艦砲射撃を行った 。目標は日本製鋼所と日本製鉄所だったが、周囲の民家や社宅街にもたくさんの砲弾が落下し、多くの人が亡くなった。

 二日間の空襲と艦砲射撃により、3000人近くの人々が殺され、多くの負傷者が出た。家屋の損害なども大きかった。

 日本側が受けた打撃は致命的なものであった。青函連絡船はすべて沈没もしくは損傷を受け、艦艇や輸送船も至るところで沈没し、本州と北海道を結ぶ物流は崩壊した。室蘭の軍需工場も壊滅した。アメリカ側の目的であった日本艦隊の殲滅、工業と資源の破壊は十分に成功したと言える。

2011年7月21日 (木)

アメリカ海軍第38機動部隊

 北海道空襲は、アメリカ海軍第3艦隊第38任務部隊により1945(昭和20)年7月14日・15日に行われた。また、15日には第34.8.2任務隊が室蘭へ艦砲射撃を加えた。

 本州以南への空襲は主にB29によって行われたが、北海道にはB29による空襲はなかった。その理由は、B29が基地としていたマリアナ諸島のサイパン・テニアン・グアムとの距離にある。B29が爆弾8トンを搭載した場合、無給油航続距離は6070キロ、爆弾3トンを搭載した場合は8150キロだった 。サイパンから札幌までの距離は3123キロ、青森までの距離は2886キロであり、8トン爆弾を積んだB29が飛来できる最大距離は北東北付近であったことが分かる。

 7月1日、第3艦隊がレイテ湾を出発した。アメリカ海軍作戦本部長キング元帥の言によれば、その任務の目的は、日本艦隊の殲滅を完了すること、また日本本土侵攻作戦の前に全ての工業と資源を破壊すること、さらに日本の戦意を低下させることであった 。

 第3艦隊第38任務部隊は、第38.1、第38.2、第38.4の任務群から成りたっており、空母7隻、軽空母6隻、戦艦8隻、巡洋艦17隻、駆逐艦61隻が属する大艦隊だった 。

 14日・15日、第38任務部隊は、北海道・本州北部に対する攻撃隊を発進させた。第38.1任務群は主に道北および道東、第38.2任務群は津軽海峡および本州北部、第38.4任務群は道央および道南を担当した。

 任務群全体では14日に868機、15日に812機が飛行可能な状態であり、両日とも4~5波の攻撃隊が出動した。機種の内訳は戦闘機(グラマンF6F-5)、夜間戦闘機(グラマンF6F-5N)、戦闘爆撃機(ヴォートF4U-1D、ヴォートFG-1D)、爆撃機(カーチスSB2C-4、カーチスSB2C-4E)、攻撃機(グラマンTBM-3、グラマンTBM-3E)、撮影戦闘機(グラマンF6F-5P)であった。攻撃隊は、14日に334.835トン、15日に330.17トンの爆弾を投下した。また、発射した5インチロケット弾は14日に1726発、15日には2007発に及んだ 。

 アメリカ軍の攻撃は日本側にとって予想しない出来事だった。航空機による反撃は全くなされなかったが、陸上や艦船からの対空砲火が米軍機を撃墜している。アメリカ側の記録によると、2日間に40機が失われているが、うち20機は着艦時の事故によるものなどであり、戦闘によって失われたのは20機に過ぎない。その内訳は道南方面1機、函館4機、厚岸1機、釜石1機、樽前山1機、小樽2機、寿都1機、留萌1機、室蘭2機、八戸1機、松島1機、志津川湾1機であった 。ほとんどは対空砲火により撃墜されている。ただし、寿都の1機については米軍記録の誤りで正しくは岩内である 。米軍が出した戦死者と行方不明者は22名だが、そのうち4名は戦後に生存が確認されたため、亡くなったのは18名となる 。

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