渡島

2011年8月 6日 (土)

長万部町

 長万部町への空襲は14日にあり、長万部駅が攻撃された。4名が亡くなり、そのうち3名は『鉄路風雲』に氏名がある。いずれも国鉄職員であった。たまたま旅客列車がホームにいなかったため、乗客には被害がなかった。


 また、『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』によると、鉄道官舎にいた奥さんが亡くなったと判明している 。

 


【長万部空襲の犠牲者】

 氏名判明・・・民間人4、船員0、軍人0
 氏名不明・・・民間人0、船員0、軍人0


【主要参考文献】

・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・岩崎正『鉄路風雲-道南鉄道空襲記録』(1979年)

2011年8月 5日 (金)

八雲町

 八雲町への空襲は14日にあった。出漁中の漁民2名がやられている。



 

【八雲空襲の犠牲者】

 氏名判明・・・民間人2、船員0、軍人0
 氏名不明・・・民間人0、船員0、軍人0


【主要参考文献】

・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・八雲町史編さん委員会『改訂八雲町史 下巻』(八雲町役場,1984年)

2011年8月 4日 (木)

砂原町

 砂原町では14日に空襲があった。攻撃されたのは渡島砂原駅・渡島沼尻信号場間を走っていた上り第40列車である。『鉄路風雲』によると、函館車掌区の車掌が頭部貫通銃創により亡くなっている。また、『噴火湾空襲』によると、4人の乗客が亡くなっており、そのうち3人の氏名が判明している。



 

【砂原空襲の犠牲者】

 氏名判明・・・民間人5、船員0、軍人0
 氏名不明・・・民間人1、船員0、軍人0


【主要参考文献】

・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・岩崎正『鉄路風雲-道南鉄道空襲記録』(1979年)
・荒木恵吾『噴火湾空襲』(1989年)

2011年8月 3日 (水)

森町

 森町への空襲は14日にあり、列車が狙われた。『鉄路風雲-道南鉄道空襲記録』(岩崎正)によれば、森駅付近で下り第255列車、石谷駅・本石倉信号場間で下り第267列車がやられ、死者が出た。


 第255列車では、機関助士が亡くなっている。乗客が亡くなったことも確からしいが、『鉄路風雲』では1~3名とされていて氏名も不明である。また、沿線住民2名が自宅にいるところをやられて死亡した。『鉄路風雲』『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』の出版後に、森町の郷土史家により、もう1人の周辺住民も犠牲になったことが突き止められている 。


 第267列車では、機関助士が機銃掃射を受け亡くなった。また、沿線住民の母子も亡くなったが、その名は不明のままである。



 

【森空襲の犠牲者】

 氏名判明・・・民間人5、船員0、軍人0
 氏名不明・・・民間人3、船員0、軍人0


【主要参考文献】

・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・岩崎正『鉄路風雲-道南鉄道空襲記録』(1979年)

2011年8月 2日 (火)

鹿部町

 鹿部町では14日・15日両日に空襲があり、陸上・海上ともに死者が出た。


 『鹿部町史』によると、14日に輸送船2隻が船入澗で攻撃され生存者2名のみ、また沖合の輸送船からも遺体6~7名を揚げたとある。『噴火湾空襲』には、同町の東光寺に保管されていた13人分の埋火葬認許下附願が収録されている。そこには乗船名は書かれていないが、『戦没船員名簿』などを確認したところ、第三星丸(北部機帆、148総トン)・明神丸(中谷武右衛門、59総トン)・千歳丸(海軍特設船雑用、177総トン)・第二神威丸(三井機船、247総トン)・神栄丸(田子村水産、53総トン)に乗っていた船員であったことが判明した。


 15日には、土砂崩れにより防空壕が押しつぶされ、子ども4人が死亡している。こちらについては『北海道空襲』に詳しい。

 


【鹿部空襲の犠牲者】

 氏名判明・・・民間人4、船員13、軍人1
 氏名不明・・・民間人0、船員 0、軍人0


【主要参考文献】

・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・戦没船員の碑建立会『戦没船員名簿』(1972年)
・荒木恵吾『噴火湾空襲』(1989年)

2011年8月 1日 (月)

南茅部町

 南茅部町では14日・15日の両日ともに空襲があった。陸上では死者はなかったが、負傷者や全焼した家があった。海上では4人の死者が出た。


 『噴火湾空襲』には、14日に旧臼尻村の沖合で船がやられて死者がでたという証言が複数収録されている。『南茅部町史 下巻』では、臼尻に艦載機がのべ10機来襲し、船舶の負傷者11人、うち3人が死亡とされているが、氏名は判明していない。町民の証言によれば、2名の遺体が覚王寺に運ばれたという。また、重傷者を翌日に函館に運んだが、助からなかったという話も残っている。


 『戦時船舶史』中で該当する船がないか探したところ、日本製鉄の鷹丸(887総トン)が臼尻付近で被弾・沈没し、たしかに3人死亡とあった。また、鷹丸の乗船者を『戦没船員名簿』の中で探すと、2人が見つかった。もう1人の名前は見当たらなかった。


 『北海道空襲』などでは、南茅部の犠牲者数を6人としているが、銭亀沢村沖で空襲を受けた俊丸(第12俊若丸?)の死者を含めているためと思われる。本調査では、函館での犠牲者とした。



 

【南茅部空襲の犠牲者】

 氏名判明・・・民間人0、船員3、軍人0
 氏名不明・・・民間人0、船員1、軍人0


【主要参考文献】

・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・戦没船員の碑建立会『戦没船員名簿』(1972年)
・駒宮真七郎『戦時船舶史』(1991年)
・南茅部町史編集室『南茅部町史 下巻』(南茅部町,1987年)
・荒木恵吾『噴火湾空襲』(1989年)

2011年7月31日 (日)

椴法華村

 椴法華村では15日に空襲があった。『椴法華村史』では4名が亡くなったとされるが、犠牲者の氏名は書かれていない。『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』では、そのうち3名の氏名が明らかになっている 。また、残る1名については青森空襲で亡くなった村民を村史が混同して記録した可能性が指摘されている。


 これら陸上の犠牲者の他に、椴法華村沖で2名の船員が亡くなっていたことが今回判明した。『戦没船員名簿』によれば、第11孝栄丸に乗船していた船員が14日に死亡とされている。調べたところ、栗林機船所属の149総トンの船で椴法華沖で沈没したと分かった 。『北海道空襲』には、機帆船が機銃掃射を受けていたという村民の証言がある。この第11孝栄丸を指しているのかもしれない。

 


【椴法華空襲の犠牲者】

 氏名判明・・・民間人3、船員2、軍人0
 氏名不明・・・民間人0、船員0、軍人0


【主要参考文献】

・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・戦没船員の碑建立会『戦没船員名簿』(1972年)

2011年7月30日 (土)

戸井町

 戸井町では14日と15日の両日に空襲があった。


 14日には汐首地区が襲われた。『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』により、3人の氏名が判明している 。


 15日には瀬田来地区・弁才町・館町が襲われた。『戸井町史』では瀬田来で2名、弁才町で1名、館町で1名が亡くなったとしており、『北海道空襲』でもそれを踏襲している。しかし、氏名は明らかにされないままであった。


 「函館空襲を記録する会」の浅利政俊氏はこれらの記述に疑問を持ち、2008(平成20)年に再調査し、『第2次世界大戦下の戸井村「証言記録」』をまとめている。それによると、新しく4名の氏名が判明している。。


 さらに、2009(平成21)年には、浅利氏の調査により、館町で亡くなった人の氏名も判明している 。


 これまで戸井空襲の犠牲者は7人とされてきたが、以上の人たちを合計すると9人となる。



【戸井空襲の犠牲者】

 氏名判明・・・民間人9、船員0、軍人0
 氏名不明・・・民間人0、船員0、軍人0


【主要参考文献】

・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・浅利政俊『第2次世界大戦下の戸井村「証言記録」』(函館空襲を記録する会,2008年)
・戸井町『戸井町史』(1973年)

2011年7月29日 (金)

函館市

 函館市には14日・15日の両日に空襲があった。この時亡くなった人たちの埋火葬許可証が函館市役所戸籍課に残されており、『函館市史 統計資料編』に79名の性別・年齢・死亡場所・死因の一覧が掲載されている。しかし、埋火葬許可証は戸籍に準じる扱いという理由により、氏名は公表されていない 。また、埋火葬許可証を元にしているために、何らかの事情で函館市内で火葬されなかった人については収録されていない。


 本調査では、「函館空襲を記録する会」の浅利政俊氏の報告資料、札幌郵政局の『殉職録』、『戦没船員名簿』などを確認し、79名のうち42名の氏名が判明した。


 一方、『函館市史 統計資料編』以外の文献・資料から判明した犠牲者が43人いた。これらの中には、『函館市史 統計資料編』に掲載されている人との重複もあると思われるが、断定するまでには至らなかった。

 



【函館空襲の犠牲者】

 氏名判明・・・民間人68、船員6、軍人 2
 氏名不明・・・民間人15、船員0、軍人12


【主要参考文献】

・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・浅利政俊『教えてください、函館空襲を-空襲犠牲者の血みどろの証言から』(幻洋社,1991年)
・浅利政俊『第2次世界大戦下の銭亀沢村 村の少年・少女が語る戦争・空襲・連合軍進駐の新しい歴史掘り起こし記録 証言記録1』(2005年)
・浅利政俊『第2次世界大戦下の銭亀沢村 村の少年・少女が語る戦争・空襲・連合軍進駐の新しい歴史掘り起こし記録 証言記録2』(2005年)
・浅利政俊『第2次世界大戦下の銭亀沢村 村の少年・少女が語る戦争・空襲・連合軍進駐の新しい歴史掘り起こし記録 証言記録3』(2005年)
・浅利政俊『第2次世界大戦下の函館空襲 戦後60年・元函館市立万年橋国民学校児童が語る証言-戦争・空襲・連合軍進駐の新しい歴史掘り起こし記録- 証言記録1』(2005年)
・浅利政俊『平和学習のための戦後58年 米軍機による函館市大門地区(若松町・松風町・大森町)空襲の検証』(2003年)
・函館空襲を記録する会・北海道旅客鉄道労働組合函館地方本部・北海道旅客鉄道労働組合サークル協議会文化部会『平和学習のための戦後60年 米軍機による函館駅・函館桟橋空襲の検証』(2002年)
・函館空襲を記録する会・北海道旅客鉄道労働組合函館地方本部・北海道旅客鉄道労働 組合サークル協議会文化部会『平和学習のための戦後60年 米軍機による松風町第1鉄道寮空襲の検証』(2002年)
・武野伸二「函館空襲を追って-埋火葬許可証の発見から」,『地域史研究はこだて』,第6号,1988年
・戦没船員の碑建立会『戦没船員名簿』(1972年)
・札幌郵政局『殉職録』(1957年)
・函館市史編さん室『函館市史 統計資料編』(函館市,1987年)

2011年7月28日 (木)

上磯町

 上磯町では町民に2人の死者が出た。空襲時に茂別警防団副団長を務めていた方が「昭和二十年七月 茂辺地空襲状況調査」 という一文を残しており、亡くなった2人の死体検案書がその中に収録されている。


 また、上磯町沖合では、駆逐艦「橘」がグラマン機と交戦し、乗員280名のうち135名が戦死、5名が戦傷死した。『平和を見つめて-上磯からの証言』(上磯地方史研究会)に元艦長が、海戦の模様を寄稿している。


 それによれば、14日午前5時40分頃から対空戦闘を開始、函館市上空に乱舞しているグラマン機に主砲の射撃を開始した。しかし、6時40分に機械室に爆弾が命中、航行不能となった。6時50分には爆弾が艦後部に命中し、艦は瞬時に右に大傾斜し、海中に没していった。海上に放り出された生存者たちは約2時間の漂流後に漁船に救助された。重傷者約30名は函館病院に送られ、軽傷者約50名は茂辺地の病院で治療を受けた。戦死者の葬儀は7月末に函館山のお寺で行われたらしい。1956(昭和31)年から1957(昭和32)年にかけて橘の浮揚作業が行われ、船内から80体分の遺骨が収容された。この遺骨は函館市内の極楽寺に安置されているという。



  『平和を見つめて-上磯からの証言』には戦死者135名の名前が収録されているが、病院で亡くなった5名の名前が載っていない。うち1名だけは本調査で判明したものの、あとの4名は明らかに出来なかった。


【上磯空襲の犠牲者】
 氏名判明・・・民間人2、船員1、軍人136
 氏名不明・・・民間人0、船員0、軍人  4



【主要参考文献】

・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・上磯地方史研究会『平和を見つめて-上磯からの証言』(1995年)
・戦争と平和展実行委員会『戦争と上磯町』(1984年)

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