後志

2011年8月16日 (火)

小樽市

 小樽市への空襲は15日に行われた。海上にも陸上にも攻撃が加えられた。海上では、第55号海防艦(810排水トン)・第47号海防艦(810排水トン)・海防艦「笠戸」(870排水トン)、汽船昭華丸(東和汽船、1931総トン)・信濃丸(日魯漁業、6254総トン)・山東丸(坂井汽船、1890総トン)が空襲を受け、海軍兵や船員・労務者が亡くなった。陸上では、銭函駅や張碓鉄道官舎・手宮台陣地などに空襲があり、民間人や陸軍兵が犠牲となっている。


 『小樽市史』の空襲関連の記述は簡単に済まされ、犠牲者については何も書かれていない。しかし、北海道新聞記者や「いつまでも戦争を忘れない小樽教師の会」が調査をすすめ、小樽市役所に保存されていた執葬認許証などから犠牲者数が33人であることを明らかにし、そのうち32人の氏名を判明させている。このように、小樽空襲については市民が中心となって細かい調査がなされてきたが、1名の漏れがあったことが今回判明した。


 『戦時船舶史』によると、小樽港で汽船昭華丸が沈没し、5人の船員が犠牲となっている。そこで、『戦没船員名簿』をあたったところ、たしかに5人の名前を発見した。このうち4名については、「いつまでも戦争を忘れない小樽教師の会」作成の名簿にも掲載されていた。しかし、1人だけ洩れていた。なんらかの理由により、市役所に執葬認許証が残されていなかったのだろう。小樽空襲の犠牲者は1人増えて34人となる。


【小樽空襲の犠牲者】
 氏名判明・・・民間11、船員7、軍人15
 氏名不明・・・民間 1、船員0、軍人0


【主要参考文献】
・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・いつまでも戦争を忘れない小樽教師の会『小樽の戦争〜証言・資料集 4-昭和二十年七月十五日の小樽 小樽空襲の記録 その1』(1987年)
・海防艦顕彰会『海防艦戦記』(1982年)
・駒宮真七郎『戦時船舶史』(1991年)
・戦没船員の碑建立会『戦没船員名簿』(1972年)

2011年8月15日 (月)

余市町

 余市町には空襲はあったものの、死者はなかったとされてきた。『北海道空襲』によれば、駐留していた暁部隊(陸軍船舶兵)が船舶の訓練を行っており、米軍機に狙われたが威嚇程度で終わったという。また、爆弾2発が落とされたが、死傷者はなかったという証言が残っている。


 しかし、今回調査したところ、15日に余市で亡くなった船員4名が見つかった。全員が札幌陸軍軍需品廠の所属だったようだ。威嚇程度の攻撃しか受けなかったとされてきた暁部隊は実際には大きな被害を被り、死者まで出たというのが事実なのであろう。ただ、暁部隊が攻撃を受けたとすると、船員しか亡くなっていないとは考えづらい。陸軍兵も犠牲になったのではないかと思われるが、裏付ける資料は見つけられなかった。


【余市空襲の犠牲者】
 氏名判明・・・民間0、船員4、軍人0
 氏名不明・・・民間0、船員0、軍人0


【主要参考文献】
・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・戦没船員の碑建立会『戦没船員名簿』(1972年)

2011年8月14日 (日)

古平町

 古平町では15日に空襲があり、稲倉石鉱業所のマンガン鉱石を積み込んでいた射水丸(栗林商船、986総トン)が沈没した。『古平町史 第三巻』が、亡くなった船員14名、積み込み作業員5名の氏名を寺の過去町から明らかにしている 。この他、のちに船を解体処理したときに発見された2名の氏名不明者があり、合計21人が空襲の犠牲者とされてきた。一方、23人という説もあるものの、未確認となっていた。


 本調査で、『戦没船員名簿』を当たったところ、『古平町史 第三巻』に名前のない射水丸船員4名が15日に死去していることが判明した。したがって、古平空襲による犠牲者は23人という説が正しい。


【古平空襲の犠牲者】
 氏名判明・・・民間5、船員18、軍人0
 氏名不明・・・民間0、船員 0、軍人0


【主要参考文献】
・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・古平町史編纂委員会『古平町史 第三巻』(古平町,1998年)
・戦没船員の碑建立会『戦没船員名簿』(1972年)

2011年8月13日 (土)

積丹町

 積丹町では15日に輸送船祥保丸(日本郵船、1327総トン)が沖合で空襲を受け沈没し13名が犠牲となった。『積丹町史』や『北海道空襲』では犠牲者の氏名は不詳とされている。


 祥保丸の被災の様子は『日本郵船戦時船史 下巻』に詳細が記されている。それによると、石炭1840トンと身欠き鰊167俵を積んで13日に留萌港を出港し、酒田港に向けての航行中に攻撃を受け、午前6時13分に沈没したという。この時、10人の船員と3人の軍人が亡くなった。船員については全員の氏名が掲載されている。


 一方、軍人については全員の氏名が不明である。そもそも陸軍兵だったのか海軍兵だったのかも定かでない。


 積丹町余別では戦死者の一部を仮埋葬した。その後、1954年に日本郵船の小樽支店長が現地に赴き、遺体を荼毘に付して、法要を営んだという。


【積丹空襲の犠牲者】
 氏名判明・・・民間0、船員10、軍人0
 氏名不明・・・民間0、船員 0、軍人3


【主要参考文献】
・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・日本郵船『日本郵船戦時船史 下巻』(1971年)
・戦没船員の碑建立会『戦没船員名簿』(1972年)

2011年8月12日 (金)

岩内町

 岩内町では15日に空襲があり、沖合にいた油槽船の八禮丸(2217総トン)で犠牲者が出た。


 『岩内町史』によれば、海軍兵(船舶警戒隊)の4名が船中で死亡、2名が岩内協会病院で死亡した。他の病院に運ばれて死亡した人もあった可能性もあるが、それについては不明であるとしている。


 今回の調査では、もう一人の犠牲者がいたことが判明した。『戦没船員名簿』の中に、八禮丸の機関長が15日に亡くなったと記されていた。詳しい状況は不明だが、おそらく岩内協会病院以外の病院に運ばれ死亡したために、町史に残らなかったのではないだろうか。


【岩内空襲の犠牲者】
 氏名判明・・・民間0、船員1、軍人6
 氏名不明・・・民間0、船員0、軍人0


【主要参考文献】
・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・岩内町『岩内町史』(1966年)
・戦没船員の碑建立会『戦没船員名簿』(1972年)

2011年8月11日 (木)

寿都町

 寿都町では15日に空襲があった。寿都湾に前日から停泊していた東海丸(大図汽船、3099総トン)が攻撃され、船員・海軍兵(船舶警戒隊)・陸軍将校あわせて16人が死亡した。寿都町役場の調査により、このうち船員7名・海軍兵1名の氏名が判明し、『北海道空襲』に掲載されている。


 私もこの空襲の調査を行い、2009年に『寿都空襲』を自費出版したが、その時点では他の8名の氏名はまったく不明だった。しかし、その後の調査で当時東海丸に乗り組んでいた海軍兵が大阪府に健在であることが分かり、お会いしたところ、一人の海軍兵の氏名を教えてくれた。


 犠牲者は町内で火葬され、葬儀も行われたという。亡くなった人たちを弔う慰霊碑が町内の龍洞院にあり、毎年7月に慰霊祭が行われている。


【寿都空襲の犠牲者】
 氏名判明・・・民間0、船員7、軍人2
 氏名不明・・・民間0、船員0、軍人7


【主要参考文献】
・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・山本竜也『寿都空襲-南後志をたずねて〔一〕』(2009年)

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