釧路

2011年9月24日 (土)

標茶町

 標茶町は15日に空襲を受けた。列車が攻撃され、機関士と乗客が亡くなっている。乗客の氏名は不明のままである。


【標茶空襲の犠牲者】
 氏名判明・・・民間1、船員0、軍人0
 氏名不明・・・民間1、船員0、軍人0


【主要参考文献】
・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・先生のつづる戦争の記録刊行会『ハマナスのかげで-1945年・北海道空襲の記録』(北書房,1979年)
・標茶消防百年記念誌編纂委員会『纒-標茶消防百年史』(標茶の消防創設百年記念事業実行委員会,1992年)

2011年9月22日 (木)

阿寒町

 阿寒町では14日に空襲があった。『阿寒町百年史』では雄別炭鉱鉄道の列車が阿寒・桜田駅間で攻撃を受け、乗客5人が亡くなったと書かれている。氏名は明らかにされていない。

 しかし、『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』の調査で、3人の名前が判明している。また、2003年に、帯広柏葉高校新聞部の調査により、1人の名前が判明している。


 最後の一人の名前はこれまで判明していなかったが、『改訂版 釧路空襲』のなかに犠牲者の氏名を発見した。木材商の方の証言中に、帳場さんが雄別炭鉱鉄道の列車に乗車中、桜田駅近くで機銃を受け、向かい合わせに座っていた子どもの前で死亡した、とある。間違いなく阿寒空襲の犠牲者である。


【阿寒空襲の犠牲者】
 氏名判明・・・民間5、船員0、軍人0
 氏名不明・・・民間0、船員0、軍人0


【主要参考文献】
・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・菊地慶一『語りつぐ北海道空襲』(北海道新聞社,2007年)
・釧路戦災記録会『改訂版 釧路空襲』(1988年)
・『帯広柏葉高新聞』2003年7月24日付,「幻の空襲犠牲者」

2011年9月21日 (水)

浜中町

 浜中町は15日に空襲を受けた。『浜中町史』によれば、無線方位信号所職員と地元の女性が亡くなっている。


【浜中空襲の犠牲者】
 氏名判明・・・民間2、船員0、軍人0
 氏名不明・・・民間0、船員0、軍人0


【主要参考文献】
・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・浜中町役場『浜中町史』(1975年)

2011年9月20日 (火)

厚岸町

 厚岸町は14日・15日の両日に空襲を受けた。『厚岸町史(上巻)』によると、死者が出たのは14日のみで5人が亡くなっている。このうち、氏名が明らかになっているのは漁夫2人と青年学校生1人のみである。また、氏名不明ながらも行商人1人が亡くなったとされる。あと1人については『厚岸町史(上巻)』には死亡状況や所属・身分など一切書かれていない。 



 一方、『広報あっけし』第578号(1995年8月)の特集「語り継ごう厚岸の戦争体験」には、上尾幌駅構内の信号機近くに落とされた爆弾により陸軍の兵隊が死亡したという証言が掲載されている。この人が5人目にあたるのかもしれない。


 今回の調査で、海軍兵が14日に厚岸町大字真竜町で死亡したとあるのを発見した。したがって、厚岸空襲の犠牲者は1人増えて、6人になると判断した。



【厚岸空襲の犠牲者】
 氏名判明・・・民間3、船員0、軍人1
 氏名不明・・・民間1、船員0、軍人1


【主要参考文献】
・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・厚岸町史編さん委員会『厚岸町史(上巻)』(厚岸町,1975年)
・厚岸町『広報あっけし』第578号,1995年8月

2011年9月19日 (月)

釧路町

 釧路町は14日に空襲を受け、別保炭鉱の炭鉱住宅で従業員一家がやられた。この一家の姓と死んだ人数は資料・証言によってばらつきがあり、3人か4人かはっきりしない。

 同じ14日に他の犠牲者もあった。『釧路町史』によれば、旧昆布森村で子どもが流れ弾に当たって死亡した。また、『鉄路風雲』によると、国鉄職員3名が砂利散布中に空襲を受け亡くなっている。



【釧路町空襲の犠牲者】
 氏名判明・・・民間4、船員0、軍人0
 氏名不明・・・民間3、船員0、軍人0


【主要参考文献】
・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・先生のつづる戦争の記録刊行会『ハマナスのかげで-1945年・北海道空襲の記録』(北書房,1979年)
・釧路町史編集委員会『釧路町史』(釧路町,1990)
・釧路戦災記録会『改訂版 釧路空襲』(1988年)
・岩崎正『鉄路風雲-道南鉄道空襲記録』(1979年)
・釧路鉄道管理局『釧路鉄道管理局史』(1972年)

2011年9月18日 (日)

釧路市

 釧路市は14日・15日の両日に空襲を受け、市民に多くの犠牲が出た。


 『改訂版 釧路空襲』によると、死者の数は資料によってばらつきがある。例えば、「戦災復興誌」(1957年)では死者183人、「昭和20年釧路市事務報告書」では戦災殉死者192人ないし194人とされる。『改訂版 釧路空襲』ではどの数字が正しいか断定は避けているが、総合的に見た場合192人が妥当であるとしている。「戦災復興誌」では、遺骨204体を家族・縁故者に引き渡したとされる。192人よりも12人多い。『改訂版 釧路空襲』によると、空襲中にショックで死亡した人なども含まれるためだという。爆撃や銃撃により亡くなったわけではないが、この人たちも空襲犠牲者に含めるべきであろうと考え、本調査では204人を採用した。


 『改訂版 釧路空襲』には民間人156人および船員2人、合計158人の死亡者名簿が収録されている。確認したところ、他市町村への空襲で死亡した釧路市民が3人含まれていたため、この方たちについては本名簿では釧路市空襲の犠牲者とはしなかった。



 今回、『改訂版 釧路空襲』の収録資料や生存者の証言などを確認して、死亡者名簿に収録されていない13人の犠牲者名を拾い出すことが出来た。その他にも、情報提供を受け、釧路市空襲による民間人犠牲者167人と船員犠牲者2人の氏名が判明した。



 釧路市では軍の犠牲者も出ている。「昭和20年釧路市事務報告書」によると海軍関係の死者が23人あったとされる。うち20人は、海軍特設監視艇の第二玉園丸(316総トン)が釧路知人岸壁で攻撃を受けた際に亡くなり、あとの3人は別の船舶の乗船者だった。
海軍兵の氏名はこれまで一人も分かっていなかったが、今回の調査で第二玉園丸機関長など3人の氏名が判明した。陸軍兵についても2人の氏名が判明した。



【釧路市空襲の犠牲者】
 氏名判明・・・民間167、船員2、軍人 5
 氏名不明・・・民間 35、船員0、軍人20


【主要参考文献】
・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・釧路戦災記録会『改訂版 釧路空襲』(1988年)
・加藤忠史『子どもたちのための空しゅう60 あの日のことを伝えたい-釧路・根室・十勝・室蘭・その他-』(2005年)
・加藤忠史『祖父母が孫たちに語る釧路空襲 もう戦争はいやです 第2集』(2004年)
・釧路市立北中学校社会科部会『釧路の空襲 第1集~第2集』(1971年)
・由利義孝『おはなし くしろ物語』(北海道教職員組合釧路市支部社会科サークル,1992年)
・釧路鉄道管理局『釧路鉄道管理局史』(1972年)
・中村作蔵『あゆみ-釧路機関区五十五周年記念』(1956年)

2011年9月17日 (土)

白糠町

 白糠町には14日に空襲があった。『叢書しらぬか第一巻 空襲前後』によると、庶路市街で2人、白糠市街で5人の死者が出ており、全員の氏名が判明している。


 また、海軍特設監視艇、白鳳丸(332総トン)も攻撃を受け、庶路恋問海岸に乗り上げ大破した。この時に死傷者が多数出て、町内の妙雲寺で葬儀が行われたが、その人数も氏名も不明のままとなってきた。


 今回、『戦没船員名簿』や各地の戦没者名簿を確認したところ、白鳳丸に乗船し戦没したと明記されている人が3人見つかった。また、乗船名は不明だが白糠沖や庶路沖で戦死したとされる海軍兵が7人見つかった。松本尚志氏のまとめによる「1945年7月14-15日北海道・東北空襲による被害艦船一覧」を見ると、白糠付近で空襲を受けた船舶は白鳳丸以外にはない。したがって、これら7人の人たちも白鳳丸に乗船し、空襲にやられたものだと判断した。


 『大湊防備隊戦闘詳報第九号(七月十四、五日敵機動部隊来襲ニ依ル対空戦闘)』に、白鳳丸が受けた攻撃の模様について書かれている。機密書類を搬出したとあるものの、犠牲者の数については書かれていない。結局、今回の調査では死者数は明らかには出来なかった。ただ、戦没者名簿はごく一部の地域でしか発行されていないことから考えると、9人以外にも亡くなった人がいるのは確実である。



【白糠空襲の犠牲者】
 氏名判明・・・民間7、船員2、軍人9
 氏名不明・・・民間0、船員0、軍人0


【主要参考文献】
・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・白糠町史編集委員会『叢書しらぬか第一巻 空襲前後』(白糠町,1982年)
・松本尚志「1945年7月14-15日北海道・東北空襲による被害艦船一覧 (1)艦船及び汽船の部 (2)機帆船の部」,『トカプチ』,第19号,2008年
・JACAR(アジア歴史資料センター),Ref.C08030453700,大湊防備隊『昭和二十年七月三十日 大湊防備隊戦闘詳報第九号(七月十四、五日敵機動部隊来襲ニ依ル対空戦闘)』(1945年),防衛省防衛研究所所蔵
・戦没船員の碑建立会『戦没船員名簿』(1972年)

2011年9月16日 (金)

音別町

 音別町は14日・15日の両日に空襲を受けた。

 『音別町史 下巻』によると、14日は尺別駅や列車が襲われ、9人の犠牲者が出ているが、うち3人の名前が不明のままとなっている。

 また、15日にも空襲があったが、『音別町史 下巻』では被害がなかったとされている。本調査では、15日に尺別地区で亡くなった方を1人発見した。


【音別空襲の犠牲者】
 氏名判明・・・民間7、船員0、軍人0
 氏名不明・・・民間2、船員0、軍人1


【主要参考文献】
・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・音別町史編さん委員会『音別町史 下巻』(音別町,2006年)

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